タトゥーが怖いのも俺の自由(笑) 〜強い表現には、強い反応が返ってくるもの〜


夏になると、露出が増える。

となると当然、タトゥーもよく目に入ってくる。

で、今日はちょっとぶっちゃける(笑)。

まっつんスタイル、やっぱりタトゥーがあんまり好きじゃない。

というか、ごめん。

普通に不快やし、怖い。

どうにも“威圧”とか“威嚇”に見えてならんのよね。

「なんでそんなことするん?」

って。

街ですれ違うときは、やや露骨に距離を取る(笑)。

例えば、イオンのフードコートで隣の席に、腕や首までしっかりタトゥーの入った家族が座ったら、普通に身構える。

たぶん、しれっと席を移動する。

もしライブで隣の席がそれやったら、もうガッカリ(苦笑)。

何かされる根拠なんてない。

本人たちは、ただ普通に座ってるだけかもしれん。

でも、こちらの身体は勝手に警戒する。

落ち着かない。

その場を純粋に楽しめなくなる。

「いやいや、勝手にビビってるだけやん」

って言われたら、まぁそうなんかもしれん。

でも、怖いものは怖い。

「なんでこっちだけ、余計な緊張を強いられなあかんのよ?」

「あの人たちは、自分の見た目が周囲に警戒心や不快感を与える可能性を、どこまで自覚してるんやろ?」

これが、今回の正直な気持ち。

もちろん、

「タトゥーなんか法律で禁止してまえ!」

とまで言いたいわけじゃない。

いや、そう言えたら話は簡単なんやけど(笑)。

最終的には、本人の身体やし、入れるかどうかは個人の自由。

そこは認めざるを得ない。

でも、

「個人の自由」

っていう一言ですべてが片づくかといえば、やっぱり違うやろ、と。

自分の身体へ何を刻むかは自由。

でも、それを人目に触れる場所へ露出した瞬間、もう完全に自分だけの話じゃなくなる。

見る人がいる。

反応する人がいる。

怖がる人もいる。

距離を置く人もいる。

そこから先は、はっきりと社会との関係の話。

タトゥーの話になると、よく聞く、

「海外では普通」

ってやつ。

いやいや、知らんがな(笑)。

ここ日本やし。

「海外では普通」って、まるで海外の価値観が、日本の価値観より上位にあるみたいに言われても困る。

海外にも国ごとの歴史や文化がある。

当然、日本にも日本の積み重ねがある。

海外で普通なら、日本でも今日から無条件に普通として扱わねばならん?

そんな理屈は通らんやろ。

それを言い始めたら、文化なんて全部、

「海外では」

の一言で上書きできてしまう。

他にも、

「ファッションです」

「個性です」

「自由です」

「それ、あなたの偏見です」

「真面目で誠実な人だってたくさんいます」

そんな言葉も、これまたよく聞く。

まぁ実際、本人たちはそういう意識なんやろう。

タトゥーがあるからって、全員が犯罪者でも、全員が粗暴でもない。

そんなことは分かってる。

でも、これまた正直に言えば、街で露出されたタトゥーを見て、

「いや、この人はきっと温厚で、繊細で、気配りのできる素敵な人なんやろな」

とは、なかなか思えん(笑)。

むしろ、

「ちょっと粗暴そう」

「威圧的」

「周囲が緊張することを、あんま気にせん人」

そう感じる。

それこそ偏見やと言われれば、そういう面もあるんやろう。

でもその印象は、何もないところから突然湧いてきたわけじゃない。

日本の社会には日本の社会なりに、刺青が背負ってきた歴史がある。

そして、そのへんのことをある程度承知の上で、肌に強烈な記号を刻んで、それを周囲の目に触れさせてる。

その表現を見て、こちらの身体が警戒してる。

それまで全部をひっくるめて、

「偏見を持つお前が悪い」

で片づけられる筋合いは、さすがにないやろと。

そもそも、

「怖がらせる意図はない」

っていう話と、

「実際は、何もしてないやん?」

っていう話は別。

本人にとっては、単なるファッションかもしれん。

自分らしさの表現かもしれん。

過去を忘れないための覚悟かもしれん。

それは知らん。

でも、本人が込めた意味だけで、表現の意味が完成するわけじゃない。

周囲の人にどう届いたかまで含めて、表現やと思う。

真顔で大声を出してる人が、

「怒ってるわけじゃない」

って言っても、周囲が怖がることはある。

同じように、本人に威嚇の意図がなくても、タトゥーが威圧として届くことがある。

そこを全部、受け手の差別意識だけの問題にするのは、あまりに一方的。

本人からすれば、

「誰にも迷惑かけてないやん?」

ってことなんかもしれん。

でも、ホンマにそうなんやろか?

イオンのフードコートで、隣に座った人が身構える。

ライブで隣になった人が、余計な緊張を強いられる。

すれ違った人が、無意識に目を逸らして距離を取る。

殴ったわけでも、怒鳴ったわけでもない。

直接的な実害はない。

でも、周囲に警戒心を発生させてる。

こっちは、自分の安心を守るために、勝手に相手を観察し、距離を測り、余計なエネルギーを使う。

これってホンマに、「何もしてない」で終わる話なんかね?

少なくとも、本人だけで完全に完結した表現ではないやろ?

人を見た目だけで判断するな?

それはその通り。

でも人間は、見た目から何も判断せずに生きることなんてできない。

服装。

表情。

姿勢。

歩き方。

声。

目線。

全部ひっくるめて、その人の印象を作る。

その中でもタトゥーなんかは、めっちゃ強い。

消えない絵柄を肌に刻み、それを人の目に触れる場所に出す。

それだけ強い表現を選んでおきながら、

「悪印象は抱くのは違う」

「距離を置くのはおかしい」

「勝手に怖がるお前らの問題」

そんなふうに、受け手の感情まで指定するのは、やっぱり虫が良すぎる。

自由なら、お互い様やん?

タトゥーを入れる自由はある。

見せる自由もある。

でも、怖いと感じる自由もある。

距離を置く自由もある。

恋愛対象にしない自由もある。

歴史的、社会的文脈を踏まえて、付き合い方を慎重に考える自由もある。

自由って、自分だけが好きに選べる魔法の言葉じゃないからね。

自分で選ぶ自由と、その結果として返ってくる周囲の反応。

その両方を引き受けることであるはず。

表現の自由はある。

でも、

批判されない自由はない。

これはタトゥーだけじゃない。

ブログもそう。

YouTubeもそう。

本を書く人も、

音楽を作る人も、

政治的な意見を発信する人もそう。

何かを表現すれば、

誰かが共感する。

誰かは嫌う。

誰かは反発する。

それは自然なこと。

まっつんスタイルだって、こうして好き勝手にブログを書いてる以上、

「その考え、嫌いやわ」

って言われる可能性は引き受けるしかない。

表現する自由はあっても、好意的に受け取られる権利まではないからね。

日本では長い間、刺青は反社会性や威圧と結びつく記号として受け取られてきた。

その歴史が良いとか悪いとか、そんな話じゃない。

ただ、社会的な記号って、本人が今日決めた意味だけじゃ成立しない。

長い時間をかけて、人々の間で共有されてきた意味も背負う。

自分では、

「自由」

「芸術」

「ファッション」

のつもりでも、

見る側には、

「威圧」

「反社会性」

「近寄りがたさ」

として届く。

その印象を、

「今日からはファッションなんでよろしく」

みたいな一言で消せるほど、人間の文化や記憶は軽くない。

何か新しい価値観を社会へ根づかせたいなら、まずは、その社会が何を積み重ねてきたかに敬意を払う。

そのくらいの姿勢は必要なんちゃうかな。

以前、別の記事でタトゥーを、

「嫌悪感と、えも言われぬ魅力が混在した存在」

として書いた。

今でも、その見方は変わってない。

まっつんスタイルは、単なるアンチタトゥーじゃないつもり。

見た目として妙に惹かれる瞬間は確かにある。

危うさや反骨心に、独特の色気を感じることもある。

でも、それでも俺は、タトゥーが苦手。

怖いし、不快。

見れば警戒するし、できれば距離を置きたい。

その感覚まで、

「偏見や」

「遅れとる」

「寛容さが足りん」

って封じられるのは、やっぱり納得できん。

こっちは、相手の人生を法律で縛ろうとしてるわけじゃない。

タトゥーを消せと迫ってるわけでもない。

ただ、その人が自分で選んだ強い表現を見て、実際に感じたことを言ってるだけ。

タトゥーを入れる自由はある。

露出する自由もある。

でも、それを見た周囲に不安や緊張が生まれることまで、

「偏見を持つお前が悪い」

で済ませるのは違う。

強い表現を選べば、強い反応が返ってくる。

好意だけじゃない。

嫌悪も、

恐怖も、

拒絶も返ってくる。

その不自由さまで引き受けてこそ、自分の選択を生きるってことなんちゃうかな。

だから、タトゥーを入れたい人は好きにすればいい。

でもこちらも、怖いものは怖いと言わせてもらう。

そして自分の安心を守るために、距離を取らせてもらう。

寛容を求めるなら、こちらの不寛容にも、少しくらい寛容でいてほしい(笑)。

自由っていうなら、それはお互い様やから☆


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