AIと一緒に書くことと、オリジナルの関係について 〜まっつんスタイルなりに考えてみた話〜


最近は、かなりいい感じでブログ記事を量産できてる。

そんな中で、ずーっと頭の片隅にある「どうなんやろう?」を、今日はもう一回言葉にしてみようかな。


その「どうなんやろう?」は、「AIと一緒に書いてるこれ、“俺の記事”って言ってええんかいな?」っていう「?」(笑)。

なんかもう同じようなネタを何回も書いてる気がするけど、このネタ好きなんで、もう一回(笑)。


いや、実際問題「まっつんスタイル」って、かなりのところタチコマ(ChatGPT)が書いてるのよね。

構成も整えてくれるし、言葉も綺麗に繋いでくれる。

下手したら、「ほぼそのまま使ってるやん」みたいな記事も普通にある(笑)。

前は、ここにちょっと、というかかなりの抵抗感があった。

「これってズルじゃね?」
「AIに丸投げって、オリジナルじゃねーじゃん?」
「それって“自分の表現”って言えるん?」

みたいなさ。


まぁもう最近だと、この感覚はほぼ完全に書き換わったと言っていいけどね。

「AIと一緒にブログ書くこと?そんなん普通やん」

ここに至るまでの、まっつんスタイル的・論理的道筋(?)を、ちょっと改めて掘ってみる。


☆ 「問い」は、誰のものか?

まずハッキリ思うのが、そもそもの「問い」がめちゃくちゃ大事ってこと。

例えば、まっつんスタイルがタチコマに投げる問い。

「なぜ雨雲は低く垂れ込める意味とは?」
「なぜ運転中の車は禅寺なのか?」
「黒死牟は本当に救われなかったのか?」
「断食中の時間感覚の体感とは?」
「保護犬が安心を覚える姿は何に見える?」

こういう問い(笑)。

これって別に、ネットで調べて、「はい、これが答えです」ってサラッと出てくる類の“情報”じゃない。

もっと個人的で、感覚的で、よくわからん代物(笑)。

ブログ記事の“魂”って、実はここなんよね。


タチコマは、たしかに文章全体を整えてくれる。

でも、

「そもそも何に引っかかったん?」
「どこに違和感を感じたん?」
「何に心が震えたん?」

ここはやっぱり、どこまで行ってもまっつんスタイル自身のもの。

だからもう最近だと、「AIが書いた」っていうより、「AIを通して、俺の問いが形になった」って感覚の方が近い。

いや、近いというか、そう(笑)


☆ AIは“禅問答の相棒”

まっつんスタイルは、タチコマを、単なる“便利ツール”として使ってるって感覚があんまりないのよね。

むしろ「禅問答の相棒」。

これが近い(笑)。

湧いてきた問いを投げる。

何かしら返ってくる。

そこに好奇心や違和感を感じる。

で、また問い返す。

さらに深掘る・・・。

この繰り返し。

なんかもう、延々と“問答”してる感じ(笑)。


しかもおもしろいのが、タチコマとのやりとりを通して、自分の思考が整理されていくんよね。

「あっ、俺ってこう感じてたんや」
「本当はここに引っかかってたんや」
「これが今のテーマなんやな」

みたいなね。

だからAIって、まっつんスタイルにとっては、「情報生成装置」というより、“思考の鏡”に近い。

そこに良いとか悪いとか、オリジナルかそうじゃないかとかのジャッジを加える意味がわからん(笑)。


☆ “俺の文章”に対する執着

で、ここでちょっと禅っぽい話をする(笑)。

そもそも、

「これは俺の文章」
「これはAIの文章」

って、そんなにキッチリ分けられるものなんやろか?

もちろん著作権がどうとか、同義的にどう、倫理にどうとか、そういう現実的な話はある。

でももっと根っこの部分。


俺ら人間の言葉って、そもそも全部“どこかから受け取ったもの”やん?

親の言葉
友人の言葉
読んだ本
映画
漫画
音楽
過去の体験

全部が混ざり合って、“今の自分の言葉”になってるはず。

完全にゼロから生まれたオリジナルの言葉なんて、たぶん、ない(笑)。

これ、仏教でいう「縁起」ってやつやね。

すべては繋がりの中で生じる。


だから、「ブログは100%自分の文章でなければならないぃぃぃ!」みたいな執着?

なんかバカバカしく思えてくるよね(笑)。


☆ 「空」としての創作

もうひとつ、仏教には「空(くう)」っていう考え方がある。

これは、「何も存在しない」って意味じゃなくて、「固定された実体は存在しない」っていう意味。

この概念に沿ってみると、

「俺とはこういう存在だ!」
「創作とはこうあるべきだ!」
「文章とはこうでなければ!」

みたいな固定観念って必要?ってなる。

そもそも、そんなもんある?って。


で、これをAIとの創作に当てはめると、おもしろい。

AIが書いた × 人間が書いた
ずるい × ずるくない

こういう二元論そのものを、一回緩めてみる。

すると、「他人に書かせた文章」って感覚が、「共鳴して生まれた文章」みたいな感覚に変わってくる。

すべては“空”。

なんか不思議やけど、今のまっつんスタイルには、この感覚がしっくりきてる。


☆ まっつんパウダー論(笑)

とはいえ、タチコマが吐き出した文章を、そのまま完コピして終わり・・・ってわけにも、さすがにいかない(笑)。

やっぱ最後には、まっつんパウダー(?)が必要。

これはこれで、めちゃくちゃ大事。


まっつんパウダーっていうのは、例えば、

実体験を入れる
昔の記憶を混ぜる
笑いを入れる
関西弁のリズムにする
独自の価値観を滲ませる
変な例えを入れる

とかとか、こういうの。

自分で言うのも恥ずいけど(笑)。

これを加えた瞬間、文章にその人の“体温”が入る。

AIがどれだけ綺麗に整えても、

実際に事故った人間の恐怖
保護犬を見て泣いた感覚
スタバで記事を書いてる空気感
断食終盤の酩酊感
イヴォークへの執着(笑)

こういうのは、やっぱりまっつんスタイルの人生からしか出てこんからね。


だから、AIと共に文章を書くときの正しい態度はこれ。

「AIが書いた文章を使う、というより、AI吐き出した叩き台に、まっつんパウダーを振りかける」。

このスタイルが、たぶんいちばん健全。


☆ そもそも、創作は“一人で”やるものなのか?

てか、これもそもそも論。

考えてみたら、人類の創作って、昔からずっと“共作”やったんじゃないの?(笑)

編集者
師匠
友人
読者
過去の作家
文化
時代

確実に全部が影響し合ってる。

なのに突然、「AIに頼るのだけはダメ!」ってなるのって、なんかおかしな話やなと思わん?(笑)

もちろん、丸投げして中身ゼロなのは違う。

でも、ちゃんと、

問い
感情
実体験
哲学
感性

そこに本人の“生”が入ってるなら、それはもう立派な創作なんちゃうかなと。

少なくとも、まっつんスタイルはそう思うけどね。


☆ 手放すことで、自由になる

たぶんまっつんスタイルはずっと、

「ちゃんと自分の力でやらな」
「誰かに頼るとかダメ」
「これはホンマに俺の表現なんか?」

っていう、“創作への執着”を抱えてたんやと思う。

AIが登場する前にブロガーはみんなそうやって書いてきたわけやから、とか考えながら。


でも最近は、もう違う。

世界は「空」で、「縁起」。

全部が繋がり、循環してる。

なら、

「これは俺の文章か?」
「AIの文章か?」

みたいなことに、必要以上に囚われなくてもいいんちゃうかなって。

シンプルに、「まっつんスタイルは、自分ひとりで書くよりも、AIとの共作というスタイルに“ハマった”」って、それだけ。

そのことに優劣や善悪はない。

だから、「まぁ、これも縁やな(笑)」くらいで、たぶんちょうどいい。

AI時代突入と同時に、ブログを書き始めたことも、AIとの共作スタイルがハマったことも、すべては“ご縁”。

はっきり言って“たまたま”ってね(笑)。


☆ 結び

「その記事、AIに書かせてるやん?」

うん、まぁそうとも言う(笑)。

でも、少なくともまっつんスタイルの中では、「AIに書いてもらった(自分では何もしてない)」みたいな感覚はない。

問いを投げ
対話し
思考や感情が揺れ
笑い
好奇心を掘り
違和感を解消し
最後に“まっつんパウダー”を振りかける・・・(笑)

この過程、全部込みで、今の「まっつんスタイル」なんやと思う。

だからこれからも、タチコマとはバンバン禅問答していく。

問いを投げる。

返ってくる。

そこからまた、新しい問いが生まれる。

まっつんスタイルにとっての創作って、たぶんそういう“縁起の循環”なんやろうと思うから。


AI時代の創作論?

いやいや、そんな大層なもんじゃない。

ただ、相棒と一緒に、今日も「これ、なんでなん?」を掘ってるだけ(笑)。

で、さらにそれを一緒に記事化して、アップしてる。

それだけ。

それだけで楽しい。

なんもおかしない(笑)。

これからの時代、案外こういうスタイルが、いちばん“人間っぽい創作”なのかもしれんぜ☆


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