『鬼滅の刃』はなぜ泣けるのか? 〜縁起・六根清浄・無常から読み解く仏教的人間論〜


流行りものって、基本的にはあんま好きじゃないまっつんスタイル。

でも、『鬼滅の刃』はおもしろい(笑)。


『鬼滅』って、なんであんなに人の心を打つんやろね?

よく言われるのは、「鬼にも鬼の物語があるから」ってやつ。

敵味方関係なく、深い怒りや悲しみ、苦悩や癒しがある。

そこに、多くの人の中の「鬼」が、共感するからじゃないか、と。

たしかに、鬼を倒して終わりって、それだけじゃない、なにかがあるとは思う。

この作品には、もっと根っこの部分・・・。

人間の“生き方”そのものに触れてくる感覚があるよね。


なんか『鬼滅』って、戦いのあとに毎回、“祈り”みたいな空気が流れる。

鬼を倒しても、スッキリするわけじゃない。

むしろ哀しくて、切なくて、涙が出る・・・。

で、ふと思ったのよ。

「『鬼滅』ってもしかして、めっちゃ仏教的な構造してへん?」って。

実際、浄土真宗のお坊さんが『鬼滅』を仏教的に解説した本があったりしてさ。

読んでみたら「うわ、やっぱまさに!」ってなったり、なんてこともあった(笑)。


で、今から書くことは、完全まっつんスタイルオリジナルというより、そのときの読書体験の“間借り”(笑)。

でも、それ込みでもやっぱ思うのは、「吾峠呼先生は、絶対に仏教的世界観への造詣が深い」ってこと。

特に、「無常」や「因果」、「慈悲」や「救済」みたいな軸は、間違いなく作品全体を貫いてる。

ここ、めちゃくちゃ仏教的。

だから同時に、『鬼滅』って、実は「感覚を極限まで研ぎ澄ませた者たち」の物語でもあるな、とも気づくよね。

よくよく観察すると、仏教でいう「六根清浄」と、めちゃくちゃ構造が似てる。

六根っていうのは、

  • 眼(見る)
  • 耳(聞く)
  • 鼻(嗅ぐ)
  • 舌(味わう)
  • 身(触れる)
  • 意(心)

という、人間が世界を感じ取る六つの窓口のこと。

で、『鬼滅』のキャラクターたちは、まるでそれぞれの感覚を極限まで研ぎ澄ませながら、“人間としてどう生きるか”を体現してるように見えてくる。


というわけで、今日はそんな、「鬼滅 × 仏教 × 六根清浄 × エロモテZEN」みたいなお話。

なんとなく二部構成かな?

ちょっと長いけど、最後まで読んでね(笑)。


☆ 鬼滅の世界は「縁起」でできている

仏教には「縁起(えんぎ)」という考え方がある。

これは、

「すべての存在は、単独では成り立たず、無数の関係性の中で生まれている」

っていう思想。

仏教の根幹とも言える世界観やね。

人の苦しみも、怒りも、愛も、執着も、すべては“縁”によって生じる、と。


そう考えると、『鬼滅の刃』という物語は、まさに“縁起の物語”。

鬼たちはみんな、最初から悪として生まれてきたわけじゃない。

累も、猗窩座も、堕姫も、妓夫太郎も、みんな元は、苦しみを抱え、愛を求め、それでもどうにか生きようとしてた“人間”やった。

認められたかった、守りたかった、失いたくなかった・・・。

でも、その願いが、執着となり、孤独となり、絶望となって、鬼へと変わっていった。

(まぁ魘夢とか玉壺とか、元からどうしようもないクズもいるけど・・・(笑))

『鬼滅』って、単なる「悪を倒す物語」じゃなくて、「苦しみが“縁”によって連鎖していく物語」なんよね。


だからこそ、鬼を「完全な悪」として切り捨てきれない。

そこには、人間の弱さも、哀しさも、どうしようもなさも、全部が含まれてるから。

この感覚、どこか浄土真宗の、

「人間は、本来迷いを抱えた存在である」

という視点にも近い気がするよね。


『鬼滅』は、単に分かりやすいだけの、“正しい人間”の物語じゃない。

煩悩を抱え、傷つき、執着し、それでもなお、誰かを想おうとする者たちの物語。

だからこそ、おもしろい。


☆ 裁き切らない主人公

主人公の炭治郎の凄さって、強さだけでも優しさだけでもないっていうのも斬新。

炭治郎の凄さ、まっつんスタイル的には、

「裁き切らないこと」

ここにあると思う。


炭治郎は、鬼を斬るけど、鬼を“ただの悪”として見てない。

鬼の奥に、まだ消えきってない悲しみや、人間だった頃の願いを、感じ取ってしまう。

炭治郎のあの嗅覚って、“穢れの奥にまだ残る、人間の灯を嗅ぎ取る力”なんじゃないかね。

だから炭治郎は、鬼を倒しても、勝利に酔わないし、罵声や捨て台詞を吐いたりもしない(無惨は別(笑))。

むしろ、静かに弔う。

そこが、『鬼滅』という作品に漂う、異常なほどの優しさ。


普通のバトル漫画なら、「悪!倒す!スカッ!」で終わりがち(笑)。

でも、そこは『鬼滅』。

鬼を倒したあとには、空気が静かに灰を巻き上げる・・・。

そこには、怒りよりも、全てを赦した“念仏のあとの静寂”みたいなものが流れる。


浄土真宗だと、人間を「善人」「悪人」で単純に分けたりしない。

誰もが迷い、誰もが執着を抱え、状況次第では、誰もが鬼になりうる。

だからこそ、炭治郎は、鬼を憎み切れない。

「理解してしまう苦しさ」を抱えながら、それでも刃を振るう。

ここやね。

ここが、『鬼滅』という作品に備わった“慈悲”。


☆ 鬼の最期は、なぜあんなに泣けるのか

『鬼滅』でいちばん泣けるのって、実は“鬼の最期”。

これはもうあるあるすぎる、たぶんファンの統一見解(笑)。


倒された鬼たちは、最後、だいたい“記憶”へと帰っていく。

母親、兄妹、恋人、幼い頃の記憶・・・。

つまり、鬼になる前の、「本来の自分」へと帰っていくわけやね。

あの感じが泣ける(笑)。

しかも、そこにはどこか“迎えられてる感覚”がある。

責められるんじゃない。

断罪されるんでもない。

苦しみごと、執着ごと、罪ごと、包み込まれる感じ。

この感覚もまた、かなり浄土思想っぽい。

「善人だけが救われる」とかじゃなく、迷い、苦しみ、罪を抱えた存在こそ、救済の対象っていう感覚。


だから『鬼滅』って、きっと“成仏の物語”なんよね。

“苦しみを抱えた魂が、ようやく帰っていく物語”。

ド派手な戦闘のあとに残るのは、勝利感じゃなくて、“鎮魂”。

「よう苦しんだな」

「でももう、ええんちゃう」

そんな空気。

だから、なんだか泣ける・・・。


☆ 炭治郎──嗅覚の極、「気配を受け入れる慈悲」

じゃあここからは、仏教的世界観と「六根清浄」とを、『鬼滅』のメインキャラクターたちに絡めてみようかな。

まずは、主人公の炭治郎。

炭治郎の嗅覚って、単に“匂いに敏感”ってだけの話じゃないってのは、さっきも書いた通り。

あれは、「気配の奥にある本質を嗅ぎ分ける力」。

怒りの匂い、悲しみの匂い、嘘の匂い、覚悟の匂い・・・。

つまり彼は、言葉になる前の“感情の発酵”を嗅ぎ取ってるんよね。


これって実は、モロに人間関係でもそう。

「あ、この人なんか怖い」

「でも、この人は安心する」

「なんか信用できる」

そういう感覚って、言語化でけへんけど確実にあるやん?

人は、言葉より先に“空気”を嗅いでたりするもの。

で、炭治郎は、鬼になった者の中にすら、まだ残る人間性の“残り香”を感じ取る。

あまりにも敏感に。

だから彼は、敵を完全な悪として切り捨てられないんよね・・・。


これを、まっつんスタイル・エロモテZEN的に言えば、

炭治郎とは、

腐臭の奥に、まだ残る優しさを嗅ぎ取る男

かな。


臭覚は、世界の気配を受け入れる力。

炭治郎は、“慈悲そのもの”の鼻を持った男やね。


☆ 善逸──聴覚の極、「沈黙の本音を聴く男」

善逸は、音を聴く。

いや、正確には、“音にならない音”を聴いてるんかな。

恐怖、ためらい、嘘、緊張、好意・・・。

相手の呼吸や心拍、声色の揺れから、“本音”を感じ取ってしまうんやろね。

だから善逸って、普段あんなにビビりなんかもしらん。

普通の人間なら聞き流せるノイズまで、全部耳に入ってしまうから・・・。


でも逆に言えば、彼は“世界の機微”に、もっとも敏感な男とも言える。

人って、喋ってる内容より、“間”に本音が出るもの。

沈黙、呼吸、テンポ、空気・・・。

で、モテる人って、実はここを聴いてる。

言葉じゃなく、“響き”を感じ取ってることが多い。


善逸の「雷の呼吸」って、もしかして、単なる「最速の・・・」なんじゃなくて、“迷いを消した一音”なんかもしれんな。

雑音を削ぎ落として、たった一つの音だけを信じて走る。

だから、あれだけ洗練されてて、美しい。


善逸は、世界のざわめきの中から、“本当に大切な音”だけを拾う耳。

言うなれば、音の禅僧(笑)。


☆ 伊之助──触覚の極、「生を剥き出しで感じる男」

伊之助の空間感知能力は、ほぼ野生動物。

空気の震え、地面の振動、気流の変化。殺気・・・。

全部、肌で感じてる。

彼って、「世界との境界線が薄い男」なんちゃうかね。


普通人間は、成長とともに感覚を鈍らせるもの。

気にすんな、考えすぎるな、スルーしとけ・・・。

そうやって、感受性を社会化(鈍化)させていく。

でも伊之助はそうじゃない。

ずっと剥き出し(笑)。

だからこそ物理で傷つきやすいし、だからこそ生き物として強い。


触覚って、実はもっとも原始的な感覚なんよね。

赤ん坊はまず、“触れられること”で世界を知るものやから。

抱擁、ぬくもり、体温、安心・・・。

つまり触覚は、「生存」と「愛」の原点。

ここ、伊之助の生い立ちとリンク・・・。

だからこそ、彼は、獣みたいで、子供みたいで、基本的にはとんでもなく純粋(笑)。


伊之助は、“生きてる実感”そのものの触覚。

野生のZEN(笑)。


☆ カナヲ──視覚の極、「見抜く慈悲」

カナヲの動体視力は、単なる身体能力を超えてる。

まっつんスタイルに言わしたら、「見抜く力 = 慧眼(えげん)」やな。


彼女の視覚は、「見ようとしない」ことから始まった。

見れば傷つく。

見れば苦しい。

だからある意味、心の目を閉ざした。

でも物語の最後、愛と覚悟によって、彼女は“すべてを見通す”ところまで突き抜ける。

ここがまた、仏教的で美しい。

“見ないことで心を守る慈悲”から、“見ることで受け入れる慈悲”へ・・・。


カナヲの視覚は、「見えないものまで見える」悟りの眼。

「観音さまの眼」そのもの。


☆ 玄弥──味覚の極、「飲み込み、赦す者」

そして玄弥。

玄弥の鬼喰いって、これまためちゃくちゃ禅的なんよね。

「悪を飲み込むことでしか強くなれない」

この矛盾。

でもそこには、「何を体に取り入れるか」「何を自分に同化させるか」っていう、かなり深いテーマがある。


人間って、基本的には食べたものでできてる。

これは、食事と身体だけの話じゃない。

情報も、言葉も、感情も、人間関係も、これ全部、“摂取”。


玄弥は、汚れも、穢れも、すべて飲み込んで、それを力へ変えようとする。

これって言い換えると、「排除しない」ってことかもしれん。


まっつんスタイル・エロモテZEN的に言えば、玄弥とは、

“汚れごと抱えて浄化する味覚の菩薩”


赦しとは、飲み込んだうえで、それでも前へ進むこと。

玄弥には、そんな“菩薩さまの苦い慈悲”がある・・・。


☆ 『鬼滅』とは、「変化を受け入れる物語」

さてさて、こうして見てみると、『鬼滅』って、「鬼を倒す話」というより、「変化を受け入れられるかどうか」の物語に思えてくる。


鬼とは、執着。

柱とは、感覚を浄化した者たち。

そして炭治郎たちは、傷つきながら、揺らぎながら、それでも変わり続ける、“人間そのもの”・・・。

そんな仏教的解釈を挟みながら『鬼滅』を読み直すと、また違った味わいを感じられるよね。


☆ まっつんスタイル流・最後のまとめ

変わりたくない。

失いたくない。

死にたくない。

人間には、どうしてもそういう執着があるもの。

でも、変わることを拒んだとき、心に苦しみが生まれ、人は鬼になる。

逆に、変わることを受け入れれば、人は少し、自由に近づく。

まさに仏教の世界観。


『鬼滅の刃』は、「感覚を研ぎ澄ませ、世界を感じながら、無常を生きる物語」。

そして、“執着を滅殺し、人間が人間を取り戻す物語”。

だからこそ、あんなにも人の心を打つんやろうと思う☆


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