木庵・即非・隠元「黄檗の三筆」〜まっつんスタイル流・三人の禅僧キャラ解釈(笑)〜


☆モテエロZENの基礎教養としての「黄檗」

『まっつんスタイル』の読者さんには、

禅の一派である「黄檗宗」の存在について知っといてもらいたくてね。

今日は、

「黄檗の“隠れ変態”」

じゃない、

「黄檗の三筆」

と呼ばれる3人の禅僧をサササッと紹介してみる(笑)。

木庵、

即非、

隠元の3人。

『まっつんスタイル』には、

写真もなけりゃ図解もない。

ソースの引用も、

教科書的な解説もない、

なんとも不親切なブログ(笑)。

でも、知識として“エッセンス”だけでも知っとくと、世界の解像度がググッと上がるからね。

ほないこか。

と、一応先に断っとくと、以下ははっきり言って、

“史実に基づいた”人物伝じゃない(笑)。

黄檗宗の概要や、基本プロフィール以外は、

三人の書や生き方から、まっつんスタイルが勝手に感じ取った、

「キャラクター翻訳」

なので、あくまで、

「黄檗を知るきっかけ」

「黄檗三筆を楽しむためのエッセイ」

くらいに読んでほしい(笑)。


☆まず「黄檗宗」って何?

「黄檗宗」 = 江戸初期に、明代中国の禅文化を、かなり濃い形で持ち込んだ、“異物感MAXの禅”

・開祖:隠元隆琦(いんげん りゅうき)

・中国・明末の禅を、そのまま日本に持ち込んだ

・念仏も唱える

・お経は中国語読み

・建築も、食文化も、服装も、日本の禅とはちがう

当時の日本仏教界から見たら、

「あら? なんか来た?」

「もしかして・・・、怖い?」

「でもなんか、本物っぽい?」

そんな感じやったんちゃうかな?(笑)

じゃあ以下、「黄檗の“隠れ変態”」、

じゃなくて、「黄檗の三筆」の、

“まっつんスタイル的”紹介。

一気にいこう!


☆木庵性瑫(もくあん・しょうとう)――書で殴る、黄檗の剛腕

☆木庵は「エロくない」けど外せない

黄檗宗の“変態トライアングル”といえば、

隠元

即非、

木庵

の三人。

即非が「腐らせる男」なら、

木庵は「正面突破で殴る男」(笑)。

「エロさ?」は、ほぼ無い。

うん・・・、まぁ見方によってはあるけど、ほぼ無いってことにしとく(笑)。

じゃあ何があるか?

「圧」がある。

そして、この“圧”こそが、禅の別の側面を示してるように感じる。


☆木庵性瑫って何者?

・生年:1611年

・没年:1684年

・中国・福建出身

・隠元隆琦の高弟

・日本に来日し、黄檗宗を支える

・書の名手として「黄檗三筆」の一人に数えられる

・まっつんスタイル的に言えば、「黄檗宗」の“実務と威力”を担った存在?

これが木庵。

以下の“ヤバさ”は、

「まっつんスタイルには、そう見える」

って話(笑)。


☆木庵のヤバさ①|一文字で空間を制圧する

木庵の書は、

・太い

・大きい

・なんか逃げ場がない

どうやら読ませる気がない。

そんな感じなんよね(笑)。

まずは、空間を制圧する。

「書 = 意味、じゃない」

「書 = 圧、である」

画像をググってもらえばわかる。

これが木庵スタイル(笑)。


☆ヤバさ②|優しさゼロ、説明ゼロ

木庵は、

・仙厓のように笑わない

・即非のように皮肉らない

・良寛のように寄り添わない

ただ、“立つ”。

「これが禅や!」

とかも言わず、

その場を、そういう空気”にしてしまう

そんな印象。


☆ヤバさ③|「喝」を「視覚化」した?

白隠の「喝」が音なら、

木庵の書は、“視覚的な喝”とでもいうべきもの。

見た瞬間、思考が止まる。

理解する前に身体が反応する。

これって、“禅の初期衝動”に近いんかも。


☆ヤバさ④|隠元を最も忠実に体現した弟子?

隠元の禅は、

・中国(明)のまま

・妥協しない

・日本的に馴染ませない

木庵はそれを、

“一切薄めずに日本へ叩きつけた”。

優しく翻訳しようとかじゃなく、“原液”を注入(笑)。

あの書には、そんな威力を感じる。


ヤバさ⑤|評価を拒否する存在

木庵の書は、

・上手いか下手か

・好きか嫌いか

そういう評価を、最初から受け付けない“凄み”を感じる。

近づくと、こっちが試される?

これは禅の書画全般に言えること。

もちろん木庵も、その例外じゃない。


☆木庵語録(精神の翻訳)

・考えるな

・感じろ

・禅は殴られて始まる

・意味は後でいい

・逃げ場を作るな

※逐語じゃない(木庵的“圧”の、まっつんスタイル的翻訳)。


☆まっつんスタイルオリジナル語訳

・「圧」 = 逃げない覚悟

・「太さ」 = 迷いのなさ

・「無愛想」 = 迎合しない

・「忠実」 = 誠実さ

・「書」 = 身体の痕跡


☆エロモテZEN的・木庵の位置づけ

木庵は、いわゆるモテる男じゃないと思う

でも、

背中で示す、

言い訳しない、

余計な説明をしない。

こういった姿勢は、禅の魅力が全開に感じられる。

一部の人間を深く惹きつける。

全員に好かれようとしない者だけが、“本物の圧”を持つ

そんな存在。


☆黄檗の“柱”としての木庵

仙厓が笑いで、

一休が毒で、

白隠が量で殴るなら、

木庵は、

“ただ、立つ”。

黄檗という“異物”が、日本に根を下ろすために必要だった一本の太い柱。

それが、木庵性瑫。

「ぶっとい書」によって、禅を殴り込んだ男。


☆即非如一(そくひ・にょいつ)――禅を詩で腐らせた?黄檗の変態

☆なぜ「即非」がエロモテZENなのか

木庵もそやけど、「即非如一」なんて名前、知らんよね?(笑)

「隠元隆琦」なら、もしかしたら知ってる。

「黄檗宗」も、まぁ聞いたことはある。

でも、その影でニヤリと笑ってたかもしれない男の名は、だいたい歴史の注釈の片隅・・・。

でも、

“エロモテZEN”の系譜で言えば、

たぶん即非は、一休や仙厓クラスの危険物(笑)。

しかも、中国大陸文人の皮肉と艶をまとってる分、質が悪い(最大級の賛辞)。

即非は、禅を広めた偉人じゃなくて、

禅を“台無しにすることで活かした”男

そんなイメージ。


☆即非如一って何者?

・生年:1616年(明末〜清初)

・中国・福建出身

・隠元隆琦の高弟として来日

・黄檗宗の僧、同時に詩人・書家

・長崎・崇福寺や、小倉・福聚寺を中心に活動

プロフだけ見るとやたら立派。

でも、実像はかなりズレてるのが即非。

即非の書を見ていると、まっつんスタイルには、木庵とはまた違う“抜け”や“余白”を感じる。

そこから勝手に、

「この人、かなりの皮肉屋やったんちゃう?」

なんて妄想したくなる(笑)。

以下の即非の“ヤバさ”パートも、史実というより、基本的にはまっつんスタイルの“遊び”。

「こういう人やったらおもろい」

くらいの読み物として読んでもらえると嬉しい(笑)。


☆即非のヤバさ①|説法より“詩が似合う人”に見える

即非は、説法よりも詩を書いた。

しかも内容が、

高尚になりすぎない、

悟りをありがたがらない、

人間の弱さを冷ややかに観察する。

つまり、

禅を“説明”せず、禅僧を“相対化”する

中国的文人の伝統を背負ったまま、禅の内部に入り込んだ異物?


☆ヤバさ②|勝手な人物像を膨らませるなら、皮肉が基本姿勢(笑)

即非のスタンスは一貫してる。

「清貧を美徳にしすぎるな」

「禅僧を神格化するな」

「悟ったフリをするな」

これを、怒りや説教じゃなく、皮肉でやる

正論を言わない

言わずに、ズラす

この距離感が、なんというか・・・、エロい(笑)。


☆ヤバさ③|なんとなく、酒と世俗を拒まないイメージ

即非は、たぶん酒を飲んだ(笑)。

俗世を見る。

人の欲を観察する。

それを否定もしないし、肯定もしない。

「まぁ、そうなるわな〜」

っていう目線と態度。

悟りを“脱俗”に置かない。

俗の中に沈める”

っていう感覚の持ち主やった?


☆ヤバさ④|書が艶っぽい

黄檗三筆の一角として、即非の書は独特。

・木庵のように殴らない

・隠元のように威厳を立てない

・線が揺れ、余白が多い

「書」が、“女性の呼吸”のような「間」を持つ

技術よりも、気配が残る。

そんな、なんとも“艶”な作風。


☆ヤバさ⑤|名前からしてズルい

「即非如一」

即(すなわち)、

非(にあらず)、

如一(ひとつのごとし)。

つまり、

そうであり、そうでない

そんな“世界の振れ幅”を、名前に仕込んだ男

そして、仏教の真髄、「空」そのものを表した男。

それが即非?

この解釈、我ながら好き(笑)。


☆即非語録(精神確定・超訳)

「高尚ぶるな、人間をやれ!」

「悟りを語るな、黙って詩を書け!」

「清貧を誇るな、貧乏はただの状態!」

「禅僧を信じるな、観察しろ!」

「俗世を拒むな、飲み込め!」

※これも逐語じゃない(精神のまっつんスタイル的・超翻訳(笑))。


☆まっつんスタイルオリジナル語訳

・「禅」 = 近づくと腐る。少し離せ。

・「正しさ」 = 近づくと臭う換気対象。

・「皮肉」 = 人間への最後の敬意。

・「艶」 = 生命の讃歌。

・「詩」 = 説明しない勇気。


☆ エロモテZEN的・即非の教え

・「正しさで惚れさせるな」

・「余白で惹きつけろ」

・「語りすぎるな」

・「皮肉は愛の裏返し」

・「腐らぬよう自立せよ」

本物は、“距離を取れる”


☆ 黄檗という異物、即非という危険物

黄檗宗は、日本に馴染まなかった。

即非は、禅に馴染まなかった?

でも、その“不馴染み”こそが、時代を越えて残った。

悟りや仏を、

詩と、酒と、皮肉でベタつかせた男(笑)。

即非如一。

エロモテZENの、ちょっと危険な完成形。

・・・さすがに遊び過ぎ?(笑)


☆隠元隆琦(いんげん・りゅうき)――異物のまま、日本に立ち続けた男

☆迎合しないという覚悟

隠元さんは、実は日本に“馴染んだ”禅僧ってわけじゃないみたい。

むしろ、最後まで馴染まなかった?

それが彼の、ブレないスタンスであり仕事やったような印象。

「黄檗宗」の開祖。

「インゲン豆」の人。

文化輸入の象徴。

そうした肩書きは、正しいけどちょっと足りない。

隠元の本質は、

迎合しないという一貫性”

にあるのかも。


☆隠元隆琦って何者?

・1592年 中国・福建生まれ(明末)

・臨済系の禅僧として修行

・1654年 高齢のまま来日

・京都・宇治に萬福寺を開創

・1673年 81歳で没

来日時、すでに60歳超。

時代を考えたら、この事実だけでもバケモノ(笑)。

日本化する余地は、最初からなかったとも言えそう。

隠元がもたらした黄檗文化は、

日本化されきらず、明代中国の色をかなり濃く残したっていう感じかな。


☆隠元のヤバさ①|折衷しない

・日本式に合わせない

・発音も儀礼も中国(明)式

・念仏も現地語で唱える

「こちらが正しい」ってスタンスというより、「中国ではこう」

是非の主張じゃなく、

“事実の提示”やった?


☆ヤバさ②|異物を“原液”で投下

建築、

食、

書、

服制、

儀礼。

どうやら隠元は、どれも“薄めなかったみたい”なんよね。

翻訳しない

調整しない

そのまま置く

頑固というか、そういうスタンスがデフォ?


☆ヤバさ③|自分より人を前に出す

隠元は、自分を前に出さない。

木庵に“圧”を担わせ、

即非に“皮肉”を任せ、

自分は軸に徹する。

今風に言えば、部下の個性を伸ばす良きリーダー?

三人の書を並べて眺めると、まっつんスタイルにはそんな役割分担に見えてしまう(笑)。


☆ヤバさ④|生活を変えた

・インゲン豆

・普茶料理

・建築様式

思想はもちろん、日本文化に幅広い影響を残した。

この功績はデカい。


☆ヤバさ⑤|最後まで中国大陸人

日本で成功しても、日本語に寄せない。

同化しないことが、最大の敬意?

そんなふうな解釈もできそう。


☆隠元語録(精神翻訳)

・無理に変わる必要はない

・違いはそのまま置けばいい

・相互理解よりも接触

・価値を薄めずに伝える

・相応と役割に徹する


☆まっつんスタイルオリジナル語訳

・「迎合しない」 = 強さ

・「一貫性」 = 誠実さ

・「原液」 = 誇り

・「異物」 = 価値

・「軸に立つ」 = 責任

※くどいけど逐語にあらず(まっつんスタイル的・超翻訳)。


☆エロモテZEN的・隠元の教え

無理に好かれにいかない。

合わせすぎない。

自分の型を保つ。

距離を保てる者だけが、本当の信頼を得られる


☆異物は、時間で徐々に効いてくる

隠元は、“いわゆる”人から好かれるタイプじゃなかったと思う。

でも、尊敬されたし慕われた。

その影響力は、

深く、

長い。

「異物のまま置かれたものは、時間をかけて効いてくる」

隠元隆琦。

原液を薄めなかった男。


さてさて、「黄檗の“隠れ変態”」、

じゃなくて「黄檗の三筆」。

知らんかったよね?

俺も知らんかった。

今回、ちょっと妄想が過ぎたのは許してほしい(笑)。

黄檗宗は、もともと臨済系の流れを汲みながらも、

今では独立した一宗として存在してるみたいやね。

それでも、独特の世界観はやっぱ、日本の禅とは一線を画す。

実際、木庵や即非の書画に触れてみるもよし。

明様式の萬福寺(京都宇治)を訪れてみるもよし。

妄想じゃなく、史実を追ってみるもよし(笑)。

知識や体験の幅が広がれば、エロモテZENの道は、もっと楽しくなるからね☆


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