一休、仙厓、良寛、そして白隠 〜“今”を生きた禅の坊主の、ふざけた隠者性〜


☆なんか思てたんと違う・・・

日本の「禅史」を眺めてると、とある違和感(?)に行き当たる。

「本物っぽい禅僧ほど、なんかふざけてない?(笑)」

厳格で禁欲的、

知的で穏やか、

泰然として、沈黙を旨とする・・・。

そんなイメージとは裏腹。

笑う、

転ぶ、

遊ぶ、

歌う、

酒好き、

女好き(笑)。

体制に背を向けるし、

世間を皮肉るし、

ついでに毒も吐く(笑)。

「あれ?、仏教者ってこんなんなん?」

「なんか思てたんと違う・・・」

今回は、

一休さん、

仙厓さん、

良寛さん、

そして、白隠さんっていう、

まっつんスタイルが敬愛する禅僧から、“ふざけ”の極意を学んでみる。

彼らがどんな仕方で世界と距離をとったのか?

これは、まっつんスタイルの目指す“在り方”そのもの。

同時に、現代人に“生きた知恵”を授けてくれもする。


☆まずは最初の三僧のプロフィール超要約(白隠さんは後述)

☆一休宗純(1394–1481)|毒で壊す

・反権威・反偽善上等

・酒・女・下ネタも辞さない、「ザ・破戒僧」

・きれいごとを徹底的に殴るスタイル

キーワード:破壊・逆張り・毒


☆仙厓義梵(1750–1837)|笑いで意味を剥ぐ

・制度の中心にいながら、制度から半歩ズレてる(笑)

・落書きのような禅画・ダジャレ・逆説をばら撒く

・“教えないことで教える”スタイル

キーワード:配置・脱力・「きゃふん」


☆大愚良寛(1758–1831)|優しさで溶かす

・小さな庵で、乞食同然の暮らし

・子どもと手まりで遊び、和歌と書を楽しむ

・争わない・競わない・奪わないスタイル

キーワード:無所有・柔・愛嬌


三者の共通点は、

“正しさに居座らない”

“今この瞬間に没入する”


☆三僧はそろって「隠者」なのか?

「隠者」を、

「世俗や社会から離れて隠遁(いんとん)し、一人静かに暮らす人」

と定義すると、若干ズレる。

けどまぁ近いといえば近いから、一応「隠者」としておこう(笑)。

でも、彼らは“逃げた”わけじゃない。

ここポイント。

それは“まったくそうじゃない”。

“価値判断の土俵”から、“半歩ズレた”だけ

勝ち負け競争に参加しない。

正解探しに加わらない。

ありがたがられない。

その“距離感”こそが、隠者性の正体。

“ふざけ”の元、やね。


☆なぜ本物の禅僧ほど、ふざけているのか?

じゃあこっからは「まっつんスタイル的・仮説」を縷々。

仮説①|悟りは「完成」ではなく「解除」だから

「悟り = 超人の完成形」

みたいに思われがちやけど、そうじゃない。

悟りとは、超平たく言うと、

“力みが解除された状態”

のこと。

力が抜けると、

カッコつけない。

正論を振り回さない。

自分を大きく見せない。

結果、

なんだかふざけてるように見える?(笑)


仮説②|笑いは、最強の抑止力だから

説教は人を前に進める(推進力)。

笑い(皮肉、脱力)は、人を立ち止まらせる(抑止力)。

禅は後者を選びがち。

わかった気になった瞬間を、笑いで止める

ここで、“ステレオタイプな坊主”のイメージじゃなくなる。

結果、

なんだかふざけてるように見える?


仮説③|ふざける = 依存を切る

ありがたがる。

尊敬する。

信仰の対象にする。

その瞬間、相手に「依存」が生まれてしまうってわけ。

「意味づけ」とか「執着」と言ってもいい。

心が苦しくなる“あれ”。

仙厓さんが言った?とされる一言が核心。

「いや、ありがたがったらあかんやん(笑)」

だから禅僧は、依存の芽を先に潰す。

結果、

なんだかふざけてるように見える?(笑)


☆いつものモテエロZEN的な解釈

“ふざけ”の構成要素(笑)。

あえて言うなら・・・、

・説明しすぎない

・正しさを押し付けない

・余白を残す

・力を抜く

・自分を偽らない

これ、結局、モテも人生も同じ。

見せすぎないから、惹かれる

決めつけないから、心に残る

自然体だから、魅せられる

“ふざけ”をあなどるべからず。


☆実はふざけている人ほど真剣

ふざけた坊主は、“ホントに”世界を舐めてたわけじゃない。

「世界を信じすぎなかった」だけ。

「世界に絶対はない」と知ってただけ。

そんなふうに、まっつんスタイルは思う。

だから、

軽いし、

遊ぶし、

笑うし、

転ぶし、

毒を吐くし、

なにより自由。

そして、“心の芯(在り方)”は、決して濁らない。

真剣に生きた姿が、なんとなくふざけて見えるだけ。

その姿に、「羨望」と「敬意」を感じるのも、ある意味自然なこと。


☆まっつんスタイルは、“ふざけた坊主”がお好き(笑)

一般的に、俺らがイメージする「偉大な禅僧」も、もちろんたくさんいらっしゃる。

栄西:禅を制度として立ち上げた人

道元:思想を極限まで研ぎ澄ました人

夢窓疎石:政治と禅を橋渡しした人

白隠:公案修行を体系化し、庶民に普及した人

雪舟:技と精神を絵に昇華した人

釈宗演:世界に“ZEN”を可視化した人

全員、問答無用で偉大(笑)。

これは揺るがん。

でも、彼らはどっちかと言うと、

禅を「立てた人」「整えた人」「伝えた人」

なんよね。

で、まっつんスタイルは、偉大なお坊さんよりも、

“ふざけた坊主”に惚れやすい(笑)。

優劣とか善悪の話じゃなしに、

「偉大さと、惚れるかどうかは別やねん」

ってこと。

単純な好み問題じゃなくて、“感性の座標”の問題やと思う。


☆まっつんスタイルが惚れるのは?

禅を「壊しながら守った人」

・一休

・仙厓

・良寛

・& 白隠(ギリ両義)

この人らは、

・禅を説明しない

・禅を完成させない

・禅を“わかった気”にさせない

ふざけることで、禅を仏殿から引きずり出した(笑)。


☆ここが決定的な違い

偉人タイプ

・禅を「正しく」伝える

・禅を「体系化」する

・禅を「後世に残す」


ふざけ坊主タイプ

・禅を「誤解させる」

・禅を「汚す」

・禅を「笑わせる」


でも、

後者みたいな人たちがおったからこそ、禅が庶民の生活まで降りてきた側面もあるんちゃうかな。


☆まっつんスタイルの感性は「人間側」に寄っとる

人間はもっと不可解で、

愚かで、

非合理で、

理不尽であってほしい

これが、まっつんスタイルのスタイル(笑)。

でもこれ、実は、

「“ふざけ坊主”が、一生かけてやってた仕事」

やと思うのよね。

道元は、「坐禅とは何か?」を極めた。

仙厓は、“坐禅してる奴を笑わせた”。

どっちも必要。

で、まっつんスタイルが“惚れやすい”のは後者(笑)。


☆禅を“思想”としてじゃなく“生き方”として見てる

まっつんスタイルは、

禅を学びたいし、

禅を理解したい。

ただ、より正確に言うなら、

“禅と一緒に生きたい”

そんなタイプ。

だから、体系や理論を積み上げた人より、路地で転んで、

「きゃふん」

って言うた坊主に、血が通って見える(笑)。


☆またまたモテエロZEN的に言うてみる

・完璧な男 → 尊敬はされる

・余白のある男 → なんか知らんけど惹かれる

・正しい男 → ちょっと近寄りがたい

・ふざけた男 → 妙に一緒にいたくなる

惚れるって、正しさや完成度に対して起きる感情とは限らん。

意外と、“未”や“余”に対して起こるもんなんかも。


☆最後に、偉大な禅僧であり、ふざけた坊主でもある白隠さん

この人は、まっつんスタイル的にはちょい異質なんで、最後にとっといた(笑)。

まずは事実関係を整理。

☆白隠慧鶴(1686–1769)|喝で叩き起こす

臨済宗の中興の祖

・現代の臨済宗の系譜は、ほぼ例外なく白隠に行き着く

・公案修行の体系化

・強烈な説法と喝

・在家への禅の普及

・修行僧の質の底上げ

キーワード:実践・叱咤・覚醒

この人は、ホンマに凄い人!

なんで世間的にも教科書的にも、イマイチ無名なんか、まっつんスタイル的には意味がわからん(笑)。

だから余裕で、

栄西以来の、最大級の改革者!

って言っても、全然言い過ぎちゃう。


☆でも、まっつんスタイルが「ふざけてる」と感じるポイントがある

ズバリこれ。

晩年に、書画を「書いて、書いて、書きまくってた」時期がある

これ、普通に考えたら異常なのよ。

もはや狂気(笑)。

・禅画

・書

・説法文

・俗語交じりの絵解き

・庶民向けメッセージ

その作品総数、なんと驚異の10,000点以上

もう一回言うわ、

10,000点以上!(笑)

こんなもん、正気の沙汰じゃない。

この“衝動”、学者タイプの「体系化」とは真逆。

もう「ふざけとる」としか思えん(笑)。


☆白隠さんのこのフェーズ、何が起きてたのか?

若い頃の白隠さんは、

・ガッチガチの修行僧

・公案に命をかける

・一時は心身を壊す(いわゆる「禅病」)

ここまでは、ストイック禅の極北

で、そこを越えた後、晩年に起きたのが、

「もう間に合わへんから、書いて、描いて、ばら撒くしかない!」

「よっしゃ!ホンマにばら撒いたろ!(笑)」

っていうモード?(笑)


☆これ、ふざけてんのか? それとも狂気か?

答えはたぶん、

両方?

でも、これはそのへんによくある、

自己顕示の狂気とか、

承認欲求の量産、

じゃないと思う。

白隠さんのこれは、

“使命感が暴走した結果としての狂気”

だから、まっつんスタイルの感性やと、

「白隠さん = 偉大すぎ」

でも晩年の、“過剰なふざけっぷり(狂気)”に、人間臭さを感じる。

白隠さんは、

ふざけてると同時に、狂気じみてる

でもその狂気は、

世界を救おうとして、ブレーキが壊れた狂気

そんな感じなんかなと。


☆10,000点のヤバさ

で、さっきの10,000点の作品群の話。

10,000点って、芸術として評価する数じゃない。

選別・完成を放棄してるとしか思えない。

正気の沙汰じゃない(再)。

つまり、

「出来の良し悪し? そんなん知らん」

たぶんそんな境地。

「今この瞬間にしか興味がない」

っていう、究極の没入の境地。

まっつんスタイルには、そうとしか思えん。

仙厓さんもたくさんの作品を残してる。

そして、その仙厓さんの“下手を選ぶ姿勢”と、

白隠さんの“狂気”は、実は地続きな気もするのよね。


☆白隠は「ふざける余裕」を、最後に獲得した人

若い頃は、

・禅を守るために命削った

・禅を体系立てた

で、晩年は、

・禅を残すために、命をばら撒いた

・書きまくることで己を崩した

この変化があるから、まっつんスタイルは白隠さんに、“ふざけ”を嗅ぎ取る。

偉大さと狂気の境界線。


☆“ふざけ坊主”に対する、まっつんスタイルの核心

さてさて、ラストはこの記事のメッセージ。

まっつんスタイルは、

禅は、「高みにある教え」じゃなくて、

「人間らしさの足元で転がってる知恵」であってほしい

そう思ってる。

だから、ふざけた坊主に惚れる(笑)。

ふざけた坊主とは、

「真剣に“今”を生きた姿」

「“人間の生”を生きた姿」

まさに、まっつんスタイルが目指すところの体現者☆


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