普通の人が殺人を決意するプロセス 〜「もっと悩めよ」と思った話〜


ふと、運転中に問いが浮かぶ。

「人は殺人犯すとき、それをどう正当化するのか?」

「人はどういうプロセスを経て、殺人を決意するのか?」

ちょっとおもしろくない?


これはたぶん、「人はどうやって“越えてはいけない線”を越えるのか?」っていう人間心理のグラデーションの話。

殺人はその延長線上にある。

まっつんスタイルが好きな人間観察の一種やね。

悪趣味とは、言わんといて(笑)。

これ、極めて崇高な観察やから。


普通の感覚やと、殺人なんていう行為は考えもしない。

仮にあったとしても、心理的抵抗、倫理的ブロック、リスクとベネフィットのアンバランスさとかで躊躇するもの。

例えば、映画や小説を見てても、

「もっとギリギリまで他の選択肢を模索するんちゃうの?」

「感情とか思考の揺れが、もっと大きいもんなんじゃないん?」

って思っちゃうことが多い。

ただ、心理学研究でも実際に言われてることやけど、人が殺人に至るプロセスって、意外と“ドラマチック”じゃないことが多いらしい。

むしろ、「じわじわ → 自己正当化 → 突破」っていう構造がほとんどなんだとか。


でも、まっつんスタイルは、そこの「人間の葛藤」を見たい。

いわゆる「文学的視点」。

例えば、

逡巡
罪悪感
恐怖心
倫理
衝動

このへんがグチャグチャになるところをもっと見たい。

ここを丁寧に描くと、めちゃくちゃ濃い人間ドラマになると思うんやけどね。


☆実際に小説を読んでそう思う

今さ、奥田英朗の『ナオミとカナコ』を読んでてね。

おもしろいんやけど、殺人を決意するまでの過程を、もっともっと細かく描写してほしいなっていうフラストレーションがあって(笑)。

なんていうか、意外とあっけなく「殺す」って結論に至るのよ。

「いや、もっと悩めよ!」って思ってさ(笑)。


『ナオミとカナコ』は、DV夫を友人と一緒に殺害する話。

たしかにこの夫は、完全にイカれてるって設定ではある。

家族を害される危険があるから、怖くて離婚も夜逃げもできない。

誰にも相談できない、警察にも言えない。

殺すしかない・・・ってストーリー。

う〜ん、まぁわからんではないけど、まっつんスタイルは、「殺すしかない」って結論に至るまでの懊悩をもっと知りたい。

「もっといろいろ考えることあったやろ?」って。


ただ、多くの小説はそこをかなり端折るのよね。

実にもったいない。

でも、そこにはいくつかの理由がありそう。

まずはその話から。


☆なぜ小説は「殺すまでの葛藤」を短く描くのか?

まっつんスタイルが思う理由は大きく3つ。

① 読者の忍耐の問題

人間の葛藤をリアルに描こうとするとどうなるか?

たぶん、「迷う → 後退 → また迷う・・・」ってな具合で、同じ思考をぐるぐる状態が続く。

めちゃくちゃ冗長。

つまり、リアルに描くと、かなり地味になるのよね。

だから多くの作家は、「決断まで」を短くしちゃう。


② 物語の推進力

小説は基本、出来事で動く。

だから、「葛藤 → 決断 → 事件」という構造にする。

もし葛藤をリアルに描くと?

葛藤
葛藤
葛藤
葛藤
葛藤・・・

になって、話が進まない(笑)。

まっつんスタイルは、心象描写がやたら多い作品、好きなんやけど。


③ 作者自身が想像できない

あと、これも意外と大きいかも。

普通の人は、殺人を本気で想像したことがない。

だから心理の深い部分は、どうしても抽象にならざるを得ない。


まぁつまり、「大人の事情」+「限界がある」ってことやね(笑)。

これはもう致し方ないところ。


☆人はどう殺人を正当化するのか

じゃあ実際、ダメだとわかっていながら、どうやって殺人を正当化するのか?

まっつんスタイルが整理してみるぜ。

① 「悪」だと認識しなくなる

普通の人は最初こう思う。

「殺す」 → 「ダメ、ゼッタイ!」

でもここから少しずつズレる。

例えば、

  • 相手が悪い
  • 自分は被害者
  • 状況的に仕方ない

思考や状況の変化の過程で、「ダメ、ゼッタイ! 」→「 いや、例外」になる。


② 責任を移す

ここがかなり重要。

人はこう考え始める。

  • あの人がこうしたから
  • 社会が悪い・時代が悪い
  • この状況なら誰だってやる

つまり、責任の外在化。

アウトソーシング(笑)。

良くも悪くも、発想の転換やね。


③ 必要な行為になる

ここから一段階進むとこうなる。

  • 自分を守るため
  • 家族を守るため
  • 社会正義のため

つまり、暴力が正義に変わる。

この段階で、「殺人 = 問題解決の最適解」になってしまう。


④ 最後に「心理的スイッチ」

実際に行動に移る瞬間は意外と短い。

ここは、研究でもよく言われるとこ。

長く悩むというより、ある瞬間にスイッチが切り替わる。

例えば、

  • 強い怒り
  • 恐怖
  • 追い詰められた焦り

この瞬間に、感情が倫理を越える。


☆実際の犯罪

実際の事件を見ると、多くは驚くほど短絡的。

例えば、

  • 口論
  • 衝動
  • 突発

だから心理学では、「犯罪者は深く考えてない」なんて言われることも多いらしい。

状況の力」っていう考え方やね。


多くの研究でも、かなり怖い結論が出てる。

例えば有名な心理実験「ミルグラム実験」。

普通の人が、権威のある人に指示されると、ためらいなく他人に電気ショックを与え続けるっていうあれ。

もう一つ、有名なのが「スタンフォード監獄実験」。

普通の学生が刑務所の看守役になると、どんどんと残酷になっていくっていう・・・。


つまり、人格は環境により、いとも簡単に変容する

普通の人でも、容易に境界を越える。

倫理は意外と状況依存・・・。


☆ここで文学がやること

最初に言った、

「もっと悩めよ!」

ってあれ、つまり、「人間の倫理の崩れ方を知りたい」ってことなのよね。

これ実は文学の大テーマ。

さっきは「端折りがち」って書いたけど、中にはそこを掘る文学ももちろんある。

「普通の人がどうやって境界を越えるか?」を。

例えば、

  • 『罪と罰』
  • 『冷血』
  • 『異邦人』

こういう作品は、殺す瞬間よりも殺すまでの心の変形を描く。

特に、この問いを一番えぐく描いたのが、フョードル・ドストエフスキー。

この人の作品は、ほぼ全部「普通の人が一線を越える瞬間」を描いてる。

例えば『罪と罰』の主人公は、最初理屈で殺人を正当化する。

でも実際に殺した後、精神が崩壊していく。

つまり倫理の境界を越えると、人間の内部が壊れるという話。


☆心理学的に、人が一線を越えるとき

で、ここからさらに問いを深める。

じゃあ、「人はどこまで追い詰められると境界を越えるのか?」。

つまり、「倫理の境界を越えるプロセスは?」

① まず現実がじわじわ壊れる

例えば今回の『ナオミとカナコ』のケースなら、

DV
恐怖
逃げ場がない

この状態が長く続く。

ここで起きるのが、正常化。

つまり、「異常が日常になる」。


② 次に思考が変わる

普通はこう思う。

警察
離婚
逃げる

でもそれが「全部無理だ」と感じ始める。

すると、思考がこうなる。

「この状況を終わらせる方法は?」


③ ここで「殺す」という選択肢が出る

ここで重要なのは、最初は本気じゃない。

例えば、「あいつ死ねばいいのに」って思うレベル。

でもこれが、何度も頭をよぎると、少しずつ現実になる。


④ 正当化が始まる

ここで脳がやり始めるのが、倫理の書き換え。

例えば

  • 相手は怪物
  • これは正当防衛
  • 社会も守ってくれない

つまり、「自分は悪じゃない」という物語を作る。


⑤ ある瞬間、現実になる

そして最後に、あるきっかけで、思考が行動に変わる。

ここは多くの場合、意外なほど静か。

ドラマチックというより、「もうこれしかない」という感覚。


実際、『ナオミとカナコ』でも、計画、実行、隠蔽までの流れは、決意してからはスムーズ(笑)。


☆「自分はやらない」と「人はやる」

ここで自分に問う。

「自分は殺人を犯すか?」

もちろん、現時点では、絶対に殺人なんて選択はしないと思ってる。

でも同時に、他にも選択肢がない(ように感じられる)環境が整えば、いとも簡単に実行するとも思う。

ここ、正確にいうと、

「実行するって知ってる」

っていう感覚。

微妙な違いやけど伝わるかな?

ここ、かなり重要なニュアンス。

「実行すると思う」じゃなくて、「実行するって知ってる」

我ながら深い人間観察やと思う(笑)。


実は、哲学とか心理学の世界でも、この感覚に近いこと言う人は多い。

普通の人の考え方は、「自分は絶対にそんなことはしない!」。

でもまっつんスタイルは少し違う。

「自分はしないつもりやけど、人間というものは、いざとなったら“やる”」

この距離感。

これは、完全に人間観察者まっつんスタイルの視点。


☆まっつんスタイルの感覚

たぶんこんな感じやと思う。

自分は今は殺さない。

でももし、

  • 完全に逃げ場がなく
  • 大切な人が危険にさらされ
  • 社会も守ってくれず
  • 他に選択肢がなく見えたら

そのとき人間は(自分も)、倫理より現実を選ぶ。

このことを「知ってる」っていう感覚。


人間を、「善悪」で見ない。

むしろ、人間の可能性を見てるって感じ?

つまり人は、

  • 小悪党にもなる
  • 英雄にもなる
  • そして殺人者にもなる

この全部の可能性を持ってる。

そういう感覚。


☆この感覚、かなりZENっぽい

禅とか仏教では、人間をこう見る。

人間は、

  • 怒る
  • 妬む
  • 欲しがる
  • 奪う

そういう可能性を常に持ってる。

つまり、善人という固定した存在はいない。

状況が変われば誰でも変わる。

「人は、完全な善人でも、完全な悪人でもない」っていう視点。


そしてここが一番深い。

まっつんスタイルが言いたいのは、

「自分の中にも殺人者になる可能性がある」と知ってる

でも、「その可能性をを選ばないように生きてる」

この感覚。

これは、かなり成熟した人間観やと思うな。

自分で(笑)。

人は殺人者になる可能性を持ってる

ただ、普段それを使わずに生きているだけ


☆オチ

人は善人でも悪人でもない。

ただ、まだ一線を越えていない人間っていうだけ。

しかもその境界線は、思っているよりずっと近くにあると思う。


そして、文学が描こうとしているのは殺人そのものじゃない。

人間がどこまで壊れずにいられるのか。

そのあやふやな境界線なんやろね。


文学を通して、倫理の不完全さ、人間心理の曖昧いさを実感できた。

今日はそんなお話☆


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