黒死牟を哀れな鬼で終わらせたくない理由 〜嫉妬ごと生き切った男の救済〜


映画『鬼滅の刃』が大ウケだそう。

猗窩座人気がすごいんだとか。

まぁ猗窩座はね、ずるい(笑)。

愛する人を奪った人間と、その愛する人を守れなかった自分を許せなかった男。

それが、最後の戦いを通じて自らに「赦し」を与える物語。

うん、なるほど、綺麗。

綺麗すぎる(笑)。

人気が沸騰するのも頷ける。


でも、まっつんスタイルが好きな鬼は、なんといっても黒死牟。

猗窩座よりも黒死牟(笑)。

やっぱ黒死牟が熱い。

上弦の壱。

最強格の鬼であり、継国縁壱の兄。

一般的には、嫉妬に狂い、強さに執着し、人間を捨てた愚かな鬼。

たぶんそういう見方が多いのかもしれんね。

たしかに、それはそう。

兄として、武士として、剣士として、弟・縁壱への劣等感と嫉妬に灼かれ続けた男。

すべてを捨てて、鬼になってまで強さを求めた。

それでも、最後まで何者にもなれなかった哀れな男・・・。

そう読めば、黒死牟はあまりに惨めで、悲しい、救われない存在に見える。

でも、でもや、まっつんスタイルにはどうしてもそうは思えない。

いや、思いたくない(笑)。

黒死牟は、ただの哀れな鬼やったんか?

それとも、嫉妬も執着も抱えたまま、それでも最後に“何か”になることができた男やったんか?

今日はこの問いを、大真面目に掘ってみようかな。


☆嫉妬に灼かれた男

黒死牟の物語の中心にあるのは、間違いなく「嫉妬」。

弟・縁壱に対する嫉妬。

縁壱は、あまりにも特別すぎたのよね。

剣の才も、人格も、その存在の透明度も、どこか人間離れしてる。

しかも本人は、その凄さをまったく誇らない。

むしろひたすらに無垢で、兄を慕い、尊敬している。

でもこれが、巌勝(黒死牟)にはキツい。

敵意を向けてくる相手なら、憎むこともできる。

見下してくる相手なら、反発することもできる。

でも、縁壱はそうじゃない。

ただ純粋に兄を思ってる。

だからこそ、黒死牟は苦しかったんじゃないかと、そう思う。

自分が欲しくてたまらなかったものを、弟は何の気負いもなく持ってる。

しかも、その弟は自分を愛している。

この構造、兄として、男として、なかなかの地獄(笑)。


嫉妬心って、単に「相手が憎い」ばかりの感情じゃないよね。

本当は、「あんなふうに生きたかった」という願いの裏返しでもある。

黒死牟は、縁壱の剣技だけに嫉妬したんやろか?

たぶんそうじゃない気がする。

縁壱の純真さ、おおらかさ、執着の無さ。

そして、“世界へ開かれた”あの感じ。

「自分もあんなふうに生きられたら、どんなに良かったか・・・」なんて思ってたんじゃないかね。

でも、黒死牟にはそれができない。

だから焦がれ、憎み、そして嫌う・・・。

まさに紙一重の愛と憎しみ。

この“あわい”を漂うのが、黒死牟と縁壱の関係性。

「いかにも人間」っていう、まっつんスタイル的エロモテZENのど真ん中(笑)。


☆なぜ笛を手放さなかったのか?

黒死牟と縁壱の物語で、どうしても外せないのが、あの「笛」の存在。

黒死牟は鬼になってからも、縁壱から贈られた笛を懐に忍ばせていた。

これがすべてをややこしくする。

いや、そうじゃなくて、物語により深い味わいを与える(笑)。


本当に憎んでいたなら、なぜ捨てなかった?

本当に縁壱を否定し拒絶していたなら、なぜ持ち続けた?

あの笛って、どう考えても単なる小道具じゃないよね。

幼い日の「縁」。

兄弟としての記憶。

自分がまだ人間だったころの“温もり”・・・。

つまり、黒死牟の中に残っていた最後の“人間”なんやと思う。


鬼になっても、“強さ”に取り憑かれても、醜く変わり果てても、それだけは捨てられなかった。

というか、捨てられなかったからこそ、黒死牟は完全な鬼にはなり切れなかったんじゃないか。

あの笛は、縁壱そのものというか、“縁壱との縁”そのもの。

黒死牟は、縁壱を憎みながら、縁壱との繋がりを手放せなかった。

ここに彼の、なんとも言えない哀しさと美しさがあるよね・・・。


☆「私はお前になりたかった」

黒死牟の最期は、とにかく重い(笑)。

自らの醜く変わり果てた姿を見て、「これが本当に、自分の望みだったのか?・・・」という問いに直面してしまう。

そして、敗北を悟ったあと、彼は涙と共に縁壱への思いを吐露する。

「自分はただ、お前のようになりたかったのだ・・・」と。

これを単なる敗北宣言と読むこともできる。

何も残せなかった男の後悔として読むこともできる。

でも、まっつんスタイルには、もっと深いところに別のものを見てしまう。

それは、嫉妬の奥にあった“憧れの告白”。

もっと言えば、ほとんど“恋慕の情”。

「お前が憎かった」

「お前が嫌いだった」

でも、その奥底には、

「お前のように生きたかった」

「お前を受け入れたかった」

「本当は、応えたかった」

そんな思いがあったんじゃないかね。

そう思えてならない。

『鬼滅の刃』20巻の裏表紙に描かれた、幼い巌勝と縁壱が凧揚げをしている画は、まさにその心象。


黒死牟は、縁壱の愛を受け取れなかった男。

愛されることに耐えられなかった。

尊敬されることが苦しかった。

純粋なまなざしを向けられるほど、自分の醜さが浮き彫りになる。

だから逃げて、鬼になった。

でも、それでも、笛だけは手放せなかった・・・。

この矛盾。

この矛盾がどこまでも人間くさくて、まっつんスタイルには、どうしようもなく愛おしい。


☆「教えてくれ」は祈りだった

黒死牟の最期の問い。

「自分は何のために生まれてきたのだ?」

これを縁壱に向けて問う。

まっつんスタイルの大好きな場面(笑)。


この場面を、ただの絶望として読むと、黒死牟は救われない。

「結局、何もわからず死んでいった哀れな鬼」

そうなる。

でも、本当にそれだけやったんやろか?

まっつんスタイルは、そうは思わない。

あの問いは、投げやりな皮肉でも、絶望だけの叫びでもない。

むしろ、最後の最後で、黒死牟がようやく“他者に心を開いた瞬間”やと思う。

しかもその相手、ずっと嫉妬し、憎み、嫌い、超えようとし続けた弟・縁壱。

その縁壱に、最後に問いを投げた。

「教えてくれ、縁壱」と。

これはすごい。


「教えてくれ」と言えたってことは、自分ひとりでは答えに辿り着けないことを認めたってこと。

“自力の檻”から、一瞬だけ外に出た。

そういうこと。

これはもう、ほとんど“祈り”に近い。

仏教的に言えば、まさに“他力”。

黒死牟は、最後の最後に縁壱を頼ったのよね。

これはもう、敗北とかそんな次元の話じゃない。

救いと赦しを求め、本来の居場所に“還る”ための一呼吸。

そういうことやったんじゃないやろか。


☆鬼ではなくなった瞬間

もちろん作中で、「黒死牟は救われた」とする描写はない。

最後に微笑んだような画があるわけでもない。

むしろ、後悔と憎しみと惨めさが強く描かれているようにも見える。

だから、吾峠先生の意図はわからない。

でも、あの涙、懐に忍ばせた笛、そして最後の問い・・・。

これらがある以上、どうしても“それだけじゃない物語”が立ち上がってしまう。


黒死牟のあの涙は、悔しさだけの涙やろか?

憎しみだけの涙やろか?

いや、あれはきっと、鬼が一瞬だけ人に戻った涙。

縁壱という、どうしても受け入れられなかった存在と、ほんの刹那でも通じることができた涙。

言うなればそう、安堵の吐息・・・。

そんなふうに感じる。


もし黒死牟が最後に「フッ」と小さく笑ったとしても、まっつんスタイルはまったく不思議に思わない。

それがたとえ、自嘲だったとしても。

「今日までしんどかったわ」「縁壱、お前どう思う?」的な?

そんなふうに、ほんの一瞬だけ力が抜けたんじゃないかね。

ホンマに笑ったかどうかはわからない。

でも、笑う寸前のところまでは来られた。

そんな気がしてならない。


☆哀れで終わらせたくない理由

じゃあなぜ、まっつんスタイルは、ここまで黒死牟を哀れな鬼で終わらせたくないのか?

そんなにこだわらんでも(笑)。

たぶんそれは、自身の人生と重なるからやと思う。

欠損家庭、貧乏暮らし、大学受験の失敗、交通事故、非モテ、劣等意識、反対側にいる人間への嫉妬心・・・。

そういうものに、長く焼かれてきた。

だからどうしても、黒死牟をただ惨めな敗者にしたくない。

それは、自分自身の過去を惨めな失敗譚で終わらせたくないという思いでもあるんかな、なんて・・・。


黒死牟は嫉妬した。

歪んだ。

鬼になった。

それでも、彼は彼なりに生き切った。

嫉妬ごと生き切った。

その末に、灰になった。

でも、それで終わりじゃない。

灰になったあとも、“縁”は残る。

問いは残る。

笛は残る。

その物語を読んだ人間の中に、黒死牟はまた生まれる。

そんなふうに思う。

これが、まっつんスタイル的、黒死牟と自身への救済。


☆輪廻する黒死牟

仏教には「縁起」という考え方がある。

「すべては関係性の中で生じる」という意味。

ひとつの存在だけで完結するものはない。

黒死牟もまた、縁壱との縁の中で生まれた存在。

縁壱がいたから、黒死牟の苦しみが生まれた。

でも、黒死牟がいたから、縁壱の慈悲もまた浮かび上がる。

二人は対立しているようで、実はひとつの輪の中にいる。

だから、黒死牟の死は、“終わり”じゃなくて“還り”。

まっつんスタイルはそう読む。

問いとして還る。

縁として還る。

読む者の胸の中で、“新しい意味”として生まれ直す。


涙、笛、問い、そして20巻の裏表紙・・・。

やっぱりどうしても黒死牟を地獄に置き去りにはできない。

彼は灰になったが、人の心と縁は燃え尽きなかった。

そうまっつんスタイルは思いたい。


☆最後に

黒死牟は、哀れで惨めな鬼やったのか?

そう見てもいい。

それも、たぶん間違いじゃない。

でも、まっつんスタイルはそう読まない。

黒死牟は、嫉妬に焼かれ、愛を受け取れなかった男。

それでも、最後の最後まで縁を手放せなかった男。

そして最期に、憎み続けた相手へ問いを投げた男。

その問いは、絶望ではなく祈り。

その涙は、敗北ではなく、人に還るための一滴。

黒死牟は、縁を残して灰になった。

だから、また生きる。

少なくとも、まっつんスタイルの中ではそういう物語。


嫉妬ごと生き切った黒死牟。

その嫉妬の奥には、愛があった。

それでいい。

そうじゃないとあかん(笑)。

哀れで終わらせるには、あまりにも人間くさい鬼やから☆


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