なぜ“信者”は怖く見えるのか? 〜心酔が持つ危うさについて〜


☆なんかちょっと、怖い

人が何かに“心酔”している様子ってのは、時々なんとも言えない「薄気味悪さ」を感じることがあるよね。

もちろんそれが、尊敬や憧れからくるものなら、一概に悪いなどと言うつもりはない。

何か芸術に心酔するとか、受け継がれた伝統に強く惹かれるとか。

はたまた、先人の教えに深く感動するとか。

こういうのは、むしろ自然なことやと思う。


でもどうだろう。

対象が、何か特定の個人や団体になり、その無謬性にまで信頼が及ぶと・・・、ちょっと空気が変わるよね。

「この人の言うことは全部正しい」
「この団体は絶対に間違えない」
「疑う方がおかしい」

みたいなこういう感じ。

これは、「信じようとしてる姿勢」、あるいは「無自覚な心酔」も含めての印象。

そこまでいくと、ちょっと引く。

ていうか、場合によっては、普通に怖い・・・。


今回はこの「怖い」を「薄気味悪い」と表現して、その正体を言葉にしてみる(笑)。


☆心酔の正体は「安心」?

まず、まっつんスタイル的大前提。

たぶん人が心酔に向かう理由って、かなりシンプルなんやと思う。

ズバリ、安心できるから。


人間ってやつは、「不確実な状態」がとにかく苦手。

「何が正しいのか?」「どう生きればいいのか?」とか。

「何を信じればいいのか?」「自分の判断で本当に大丈夫なのか?」とか考えながら常にオロオロ。

こういう問いって、本来はずっと、下手したら一生考え続けないといけないもの。

でもそれって、むちゃくちゃしんどいこと。

そこで登場するのが「権威」。

「この人が言うなら正しい!」
「この教えに従ってれば間違いない!」
「ここにいれば安心!」

これで、思考と感情の負担が一気に減る。

自分で考えなくていいし、判断しなくていいし、当然、責任も軽くなる。

だから心酔ってやつは、「不安から逃れるための、ある種の合理的な心の動き」でもあるわけやね。


☆人は「自由」より「従属」を選ぶことがある

もう少し深い話もしてみる。

「自由」って、一見すごく気持ちよさそうやん?

誰もが気軽に「自由が欲しい自由が欲しい」って口にするものでもある。

でも実際の自由って、かなり重いもの。

自分で選んで、自分で決めて、自分で責任を持つ。

これ全部込みで自由やから。

何を信じ、誰と生きるか。

どんな環境で、どんな仕事をするか。

何を捨てて、何を守るか・・・。

全部、自分で決める。

そして結果も、自分で引き受ける。

これって、よく考えたら想像以上にしんどい。


だから人は時々、自由よりも従うことを選んだりするのよね。

従う状態なら、誰かが正解を教えてくれて、責任もどこかに預けることができる(預けた気になれる)。

もうめっちゃラクで安心。

これが心酔のもうひとつの側面。

ある意味、「自由の重さから逃れるための避難所」みたいなもんやね。


☆じゃあ、なぜ心酔は薄気味悪く見えるのか?

さて、ここからが今回の本題。

「従うこと」それ自体、別に全否定されるようなものじゃないとは思う。

誰かに何かを学ぶこともあるやろう。

畏怖や尊敬から付き従い、一時的に導いてもらう選択をすることもある。

問題は、それが心酔に変わったとき。


心酔が怖いのは、そこに「主体性の消失」が見えるからやとまっつんスタイルは思うのよね。

疑わないし、批判しない。

距離を取らないし、自分の頭で考えない・・・。

つまり、判断の主導権を放てきしてる状態。

「大丈夫か?この人・・・」っていうあの感じ?(笑)

こうなると人間は、少しずつ「自分の意思で生きてる存在」じゃなくなっていく。

これが、なんとも言えない「薄気味悪さ」の正体なんやと思う。


☆思考停止の気配は、本能的に怖い

人間って本来は、矛盾だらけで不安定な存在。

欠点もあれば、間違いも犯す。

気分に左右されるし、状況次第で、考えも行動もコロコロ変わったりする。

だから、「確実に正しい人」とか、「絶対に間違えない集団」とか、そんなもんは基本的にありえへん。

なのに、誰かを無謬の存在として信じ切ってる様子の人を見ると、脳のどこかがこう反応する。

「あれ?ヤバいんちゃう?」って。

目は笑ってない(瞬きしない)のに、口元は笑ってる人、みたいな?

あるいは、なんか必死な人。

分かるかな?(笑)


たぶんこれって、人間が歴史の中で何度も見てきたやつやからやろね。

「あっ・・・」っていう既視感?

個人崇拝、カルト、独裁と狂信の〇〇・・・。

こういうのが行き過ぎると、だいたいロクなことにならない。

そこでは毎回、「個人の判断」は消えて無くなってる。

「自分はどう思うか」じゃなく、「この人が言うんだから正しい」になってる。

「おかしいのは世間」みたいなとこまで行くことも・・・。


責任も判断も、すべて外に丸投げ。

この状態を、本能的に「薄気味悪い」と感じるのは、まぁ宜なるかな・・・。


☆「心酔すること」が目的になってる人

個人的に、特に「うぇ・・・」ってなるのは、“心酔すること自体が目的”みたいになってる人に対してやね。

「そんな人、おる?」って思うかもしれんけど、よう観察したらおる(笑)。


最初はたぶん、思想や教えや人物に興味を持つところから始まる。

でもそれが次第に、

信じる

その人の側に立つ

信じてる自分を誇る

信じること自体がアイデンティティになる

みたいな流れになっていく。

これ、ホンマにある。

ここまで来ると、もう信念とか関係なくて、単なる「所属の証明」やね。

「私はこちら側の人間です」
「私はこの人を信じてる人間です」
「文句ある?」

こうなるともう、「信じてる状態の維持」が目的。

だから疑わないし、修正もしない。

そして多くの場合、これって無自覚・・・。

ついでに、排他性が剥き出しになる、なんてことも・・・。

この段階に入った人を見ると、もう「薄気味悪い」の範疇を越えるわね。


☆排他性が出た瞬間、空気が一変する

心酔が怖くなるもう一つのサインが、さっきも言った「排他性」

「俺ら」と「あいつら」、「こっち側」と「あっち側」。

この線引きが強くなり始めると、空気が一気におかしくなる。


共通の信念は、集団を結束させ、その強すぎる信念は、外部を敵に変える。

宗教でも、政治思想でも、最近では、インフルエンサーの信者文化でも・・・。

程度の差こそあれ、排他性がむき出しになった瞬間に、「心酔の危うさ」は、はっきりと形を成す。

「自分で考えること」より、「仲間であること」の方が大事になってるから。

そのとき人は、主張や思想じゃなく“帰属”を守り始めたりする。

病的な心酔の最終形・・・。


☆心酔も「主体的に選んだ」なら主体性?

ここまで書いて、なんだか飛んできそうな反論が思い浮かんだ。

それは、「盲信することを自分で選んだんやから、それも主体性じゃね?」ってやつ。

「そんなこと言うやつおる?」とも思うけど(笑)、ちょっとおもしろそうなんで、一応分解してみる。


一見もっともらしい。

でもこれ、かなり「危ういすり替え」やね。

大事なのは、「何を選んだか」よりも「誰が判断しているか?」やから。

「主体的に従う」って言う状態は、別にあり得ると思う。

師匠に付いて学ぶ、思想哲学を参考にする、感銘を受けた教えを採用する。

こういうことは普通にあるし、全然いい。

そこに、主体性が残ってると、なぜ言えるのかは、「必要なら疑えるし、離れられるし、修正できる」っていう「自由」が残ってるから。

伝わるかしら?


一方、盲信は違う。

疑わない、批判しない、修正しない、離れられないの四重奏。

病的心酔のフルコース。

要するに、判断の最終責任がもう「自分にない」。

だから「主体的に盲信してる」っていうのは、はっきり言って詭弁。

尊敬は自由。

でも、盲信は、決して自由じゃない。


☆禅が個人崇拝を警戒する理由

そして、「まっつんスタイルZEN」の登場。

禅は、こういう「権威の絶対化」を強く警戒する教え。

有名な禅語に、「仏に逢うては仏を殺せ」ってのがある。

過激に聞こえるけど、これはつまりは、「どんな権威も絶対視するな」ってこと。

教えも、師匠も、仏さまでさえも。

「依存の対象にするな」と。

これはまさに、人が人たる主体性を守るための言葉やね。


学ぶのはいいし、尊敬するのもいい。

でも、最後に観るのは自分、引き受けるのも自分。

禅のこの感じ、まっつんスタイルにはしっくりくる。


☆主体的に生きることの尊さ

逆説の話もしとく。

人は、不安を消したくて権威に従う(すがる)もの。

でもそれって、一時的な“借り物の安心”でしかないことがほとんど。

その人が崩れたら?安心も崩れる。

その思想が揺らいだら?もしその人や組織に疑問を抱いたら?その瞬間に自分も揺らぐ。

つまり心酔は、一見ラクそうに見えて、その実、かなり不安定なんよね。


一方、主体的に生きる人は、不安がゼロになることはない。

むしろ逆で、不安はいつまでもちゃんと残る(笑)。

正解がない、未来もわからない、失敗するかもしれない・・・。

それでも、自分で考えて、自分で決める。

面倒やし、重いし、しんどい。

でも同時に、この状態がいちばんの自由でもあるんよね。


「主体的に生きる」っていうのは、誰にも従わないことでも、誰からも学ばないことでもない。

「最後は自分で決める」ということ。

そのとき人生は、誰かの物語じゃなくて、自分の物語になるわけやから。

失敗しても自分、成功しても自分。

借り物じゃない、自分の人生。

これが、主体的に生きることの尊さやと、まっつんスタイルは思うね。


☆主体性がある人は、どこか魅力的

じゃあ最後、モテ的なことにも言及(笑)。


主体的に生きてる人って、どこか色気がある。

これは間違いないやろう。

なんでか?

答えはシンプルで、「自分の人生を、自分で引き受けてる強さがあるから」に他ならない。

責任を持ってる人には、覚悟があるし、覚悟がある人には、覇気やオーラがあるもの。

誰かの正解をなぞってるだけの人には決して出せない空気感。

これが「モテ」にも繋がるわけ。

間違いない(笑)。


☆というわけで、オチ

人が心酔するのは、不安を減らしたいから。

確実な意味が欲しいから。

安心できる場所に所属したいから・・・。

これ自体は、なんとも人間らしい。


別に上から批判して小馬鹿にしようってんじゃない。

まっつんスタイルにだって心当たりはある。

でも、心酔が無自覚に深まると、思考が止まり、責任を手放し、主体性が消える。

そのとき人は、自分の倫理じゃなく、誰かの倫理で動くようになる。

それって危ない。

薄気味悪い。

そして、そんな人生、おもんない!(笑)


誰かを尊敬するのは自由やし、誰かに学ぶのも、もちろん自由。

でも、盲信は自由じゃない。

最後に判断するのは、いつだって自分。

このことは、忘れちゃダメ、ゼッタイ。


不安をなくすために従うより、不安を抱えたまま主体的に生きる方が、人は自由でいられる

結局、そういう生き方を選んだ方が、静かで、強くて、美しくて、そしておもろい。

今日はそんなお話☆


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