人生は“強さ”でなく“感度”で決まる? 〜自らの「不快の閾値」を理解した選択〜


☆なぜあの仕事ができるのか?

世の中には、「普通の人間には無理」って思うような仕事がある。

例えば、

政治家
YouTuber
会社経営者
アイドルや芸人
フルコミの営業マン

なぜかって、

恥や炎上のリスク
人の人生を左右する
生活や収入の不安定さ
プライバシーが脅かされる
責任と社会への影響力が重い

まぁ要するに、リスクがあまりにデカい。

最近、まっつんスタイルが思ったのが、記者という仕事。

あの生活の不規則さ、他人の人生にグイグイ入っていく感じ、社会に与えるインパクト。

小説なんかを読んでるとつくづく思う。

「ようやるなぁ・・・」って(笑)。


シンプルに思うのよ。

「怖くないんかな?」

って。

同時に、

「自分には無理やな」

って。

これ、けっこうみんなが感じることなんちゃうかな?


で、ここで普通の人は、大体こう結論づけがち。

「あの人たちはメンタルが強い」

「でも、自分は弱い・・・」

努力不足とか、能力の優劣の話に落として、一人で凹む・・・。

でもこれ、そういう論点で理解しようとしてもしゃーないことなんちゃうかな?


☆勇気じゃなくて“感度”の差

まぁ結論を言うと、

同じ状況でも、感じる恐怖の量は人によって違う

ってこと。


わかりやすく言うと、「同じ高さの崖に立っても、平気な人と、足が震える人がいる」とか。

「同じ額の借金を抱えても、屁でもない人と、胃がキリキリしちゃう人がいる」とか、そんなイメージ。

これって勇気とか根性の差、つまり、能力とが才能の優劣やろか?

いや違う。

「感覚の差」やね。


罪悪感
恥ずかしさ
不安や恐怖

これらの感じ方には、人それぞれの「感度」というものが確実にある。

つまり、

出来る人は強いんじゃない

痛みの感じ方が弱いだけ

何度も言うけど、能力の優劣の話にしないこと。

この視点に立つと、少し、世界の見え方が変わると思う。


☆人生を決めてるもの

考えてみれば、この“感度”は、人生のあらゆる領域に影響してる。

職業選択
正義感の方向
未来の想像の仕方
付き合える人間関係
所属するコミュニティー

能力や努力よりも、

不快の閾値」が人生を選ぶ

と言っていいかもしれん。

どやろ?心当たりない?


人は、必ずしも“出来ることをやってる”わけじゃない。

実は“耐えられることをやってる”。

もっと言うと、“自然と耐えられる道を選択してる”


☆努力では埋まらない領域

もちろん、「リスク耐性」は、経験と訓練で向上することはある。

このことも、多くの人の経験則で感じられることかもしれん。

でもそこには上限がある。

ちょっと極端やけど、「〇〇恐怖症」に近いとすら、まっつんスタイルは思う。

高所恐怖症の人が、訓練でスカイダイバーになれるかと言えば、ほぼ無理やろう。


だから、リスク耐性の有無は、怠慢が否かの話じゃない。

神経系の仕様

ハッキリ言ってしまうと、生まれ持った神経の傾向が、かなり大きいと思う。

「向き不向き」は、努力以前の場所に存在する。


☆自己否定が生まれる理由

さて、問題はここから。

ここまでの話、別に「自分の生まれを呪え」って言いたんじゃない。

「解釈を変えようぜ」って話。


多くの人は、自分の苦手をこう解釈する。

「甘え」
「努力不足」
「才能がない」

でも実際はそうじゃない。

戦場が間違ってるだけ

魚に木登りさせて、「努力が足りん!」って言ってるようなもの。

「んなアホな」って話(笑)。


そして、もっと厄介なことがある。

人は、出来もしない領域に無理に突っ込むと、“克服”どころか、いともたやすく“損傷”する。

強い羞恥
過度な否定
強烈な失敗・・・

これは学習じゃなくて、普通にトラウマ

人生に長く残る破壊的ダメージ。

人は、向いてない恐怖を繰り返し体験すると、強くなる前に壊れる

間違った解釈のまま突き進むと、時間を溶かし、おまけにトラウマを抱えてる可能性があるってこと。


☆克服より選択

だから必要なのは、マインド論とか根性論じゃない。

適切な「自己分析」と「配置転換」

克服するかどうかの判断は後でいい。

まずは自分を知ることと、どこのフィールドに立つかを考えることの方が重要。


これ、誤解を恐れず言うなら、“いかにあきらめるか”。

ここで言う「あきらめる」は、自分で納得するということ。

敗北じゃなくて、“選択の確定”。

「出来ないことを出来るようにする」よりも、「自然に出来る場所を見つける」方が、人生は動き出す

世の“プラス思考信奉者”に突っ込まれそう(笑)。

でもこれは、まっつんスタイルが推す、たしかな処世術。


☆適切なゲームでプレイすること

人生は、必ずしも強くなる競技じゃない。

壊れない場所を見つける探索ゲーム

っていう一面もある。


仮に、高いリスク耐性を要求される環境で結果が出せなかったとして、それは才能がなかったわけじゃない。

努力不足でもない。

自分の閾値に適さなかっただけ。

自分のリスク耐性を知り、自分に適した環境を選択することは、逃げでもなんでもない。

むしろ、自分の才能を活かす、積極的選択。

今の環境が辛いとしたら、それはそのゲームのプレイヤーじゃなかったってだけのこと。


☆少しだけ優しくなる視点

今日の話、読む人によっては、えらい消極的に感じたかもしれん。

でもこの話を受け入れると、他人の見方が変わる。

平気な人を冷たいと思わなくていい。

むしろ、敬意と感謝が湧いてくる。

怖がる人を弱いと思わなくていい。

人には適正があり、社会は役割分担によって支え合っていると思える。

リスク耐性は、能力の優劣じゃなく、ただの“仕様”の違い


そして、自分に対してもこう言える。

「無理な場所で、無理なことを自分に強いることはない」

「できない自分を責めなくていい」

「それは敗北じゃなく、配置ミスやっただけ」


この記事を読んだのはいい機会。

もう一回自分のリスク耐性を言語化して、適正を更新してみるのもおもしろいかもよ☆


☆追記

と、ここで、当然出てくる疑問に答えておく。

「じゃあ、どこまでが「訓練で慣れる」で、どこからが「どんなにがんばっても無理」なん?」


これ、たぶんハッキリした答えはないやろね。

でも、まっつんスタイル的には、いくつか判断のヒントはあると思ってる。

仮説として、こんな感じ。


①経験を重ねると、不快感が減るか?

最初は怖い。

でも、

・回数を重ねる
・状況に慣れる
・手順が分かる

こういうことで、

不快が少しずつ減っていく感覚がある

それならそれは、訓練で伸びる領域である可能性が高い。

例えば、

人前で話す
営業で断られる
新しい環境に入る

最初はしんどい。

でも、慣れる人は慣れる。

これは「恐怖心の感度」というより、「経験不足による不慣れ」ってことやと思う。


②何度やっても“身体が”拒否するか?

逆に、いくら経験しても

・胃が痛くなる
・眠れなくなる
・極端に疲れる

日々憂鬱で、毎回強いストレスが残る。

心というか“身体の”拒絶反応。

こういう状態が続くなら、話は少し変わってくる。

これは単なる慣れの問題じゃなくて、

元々の神経の感度による、向き不向きの可能性が高い

前にも書いた、高所恐怖症の人が、高層ビルの窓拭きの仕事を続けられないのと同じ。

もう努力不足って話じゃない。

“センサーの仕様”の話やね。


③「やれるけど、削られる」タイプ

で、もう一つ厄介なのがこれ。

やろうと思えばできる。

でも、毎回ものごっつ消耗する。

これは、

適性は低いけど、不可能ではない領域・・・

なかなか判断がムズいとこやけど、ここでの重要な考え方としては、

「できるかどうか」じゃなくて、“コスパ”

同じ成果を出すのに、どうやら自分だけ消耗が激しい・・・。

そういうことなら、それは努力の問題じゃなくて、ゲーム選択の問題かもしれない。

「この先、5年10年続けられるか?」っていう感覚的判断でもいいかも。


☆判断の目安

かなり乱暴にまとめると、まっつんスタイル的にはこんな感じ。

・慣れで改善する
→ 訓練領域

・何度やっても身体が拒否
→ 不向き領域

・できるけど異常に消耗
→ 配置ミスの可能性?

この三つ。


で、それぞれを理解した上で重要なのは、全部を克服しようとしないことやね。

人はどうしても、「苦手=克服すべき」って思いがち。

でも実際は、自分の適性を発揮するには、“自分に合うゲームを選ぶ”方がはるかに早い。

そして、その方が生きやすいしね☆


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