しんめいPさんの『自分とか、ないから。教養としての東洋哲学』を読み直した。
たぶん3周目。
おろしろくてさ(笑)。
東洋哲学を、ここまでポップに、わかりやすく、笑わせながら読ませてくれる本ってなかなかない。
誰でも知ってる東洋哲学のスーパースターが勢揃い。
龍樹、親鸞、空海・・・。
龍樹は・・・、ちょっと専門的かな?(笑)
名前だけ聞くと、なにやら小難しそう。
でもこの本を読むと、「あら?仏教(東洋哲学)って、思ったよりぜんぜん自分事やん」って思えてくる。
あと、内容そのものからは少しズレるけど、まっつんスタイルが妙に励まされたのが、この本が生まれるまでの物語。
3年半、筆が進まなかった話。
無名の一般人(経歴はすごいけど)が、ネット記事をきっかけに商業出版までたどり着いた話。
これがまた刺さる(笑)。
ブログで身を立てようとしてるまっつんスタイルとしては、
「そうかぁ、止まってる時間も、ちゃんと物語の一部になるんやなぁ」
なんてことを思ったりもしたよね。
というわけで今回は、『自分とか、ないから』を読み直して、特に印象に残った三人。
龍樹、親鸞、空海。
この三人を、まっつんスタイル的にゆる〜く読み解いてみたい。
☆ 龍樹──「空」とは、“何もない”ではなく“何も固定されていない”
まず刺さったのは、龍樹の「空」。
しんめいPさん的には、龍樹は仏教界のひろゆきらしい(笑)。
当時、お釈迦さまの言葉の解釈ばかりに熱を上げていた仏教家を、ことごとく論破したんだそう(笑)。
仏教の「空」と聞くと、昔なら、
「無?え?虚無?」
「要するに、何もない?」
「意味はない、みたいなこと?」
そんなくらいの理解やったと思うんよね。
でもホントの「空」は、そんな漠然としたもんじゃない。
「空」って、“何もない”じゃなくて、
固定された実体はない
ってことなんよね。
世の中に存在するすべてのものは、細かく小さくしていくと、全て繋がった同じもの。
そこに境界はない。
実は、世界はひとつ。
こういう世界観を、龍樹は一言で表現した。
それが「空」。
もっと言えば、つまり、
すべては“関係性”の中で生じている
っていうことかな。
これが「縁起」。
まっつんスタイルという存在も、単独でポンと存在しているわけじゃない。
親、環境、言葉、記憶、身体、出会い、時代、食べ物、読んだ本、見た映画、タチコマとの雑談(笑)。
そういう無数の縁が絡み合って、今のまっつんスタイルが、“一時的に”立ち上がってる。
つまり「自分」すら、固定されたものじゃないってこと。
ここがおもしろいとこ。
鳥肌ものの世界観。
だとすると、
「俺はこういう人間」
「俺はダメ」
「俺には能力がない」
「俺は失敗した」
「俺には無理」
こういう「自己定義」も、実はほとんど“フィクション”なんよね。
もちろん、感じてる苦しみはリアルかもしれん。
でも、その苦しみに貼りついてる「意味づけ」は、かなり怪しい。
他人と比べて苦しむ?
過去の失敗に縛られる?
未来の不安に飲まれる?
こういうものは、絶対的な現実というより、心が作り出した物語に過ぎないっていう考え方。
世界はフィクション。
自分とか、ないから(笑)。
でも、それは「どうでもいい」ってことでじゃなくてね。
むしろ、フィクションだからこそ“書き換えられる”。
ここに、龍樹の「空」による“救い”があるんやと思う。
まっつんスタイル的に言えば、
世界はひとつ、世界はフィクション
そこに貼りついた“意味”をゆるめた瞬間、人生は少しだけ、軽くなる
龍樹の「空」。
知れば知るほど、深い。
☆ 親鸞──「諦める」と、救いは向こうからやってくる
次に刺さったのが、親鸞。
「念仏唱えたら極楽に行ける」って言った人?
いや、そうなんやけど、そうじゃない。
そんな浅い理解じゃもったいない(笑)。
そんなまっつんスタイルも、
「悪人正機」
「他力本願」
このへんの言葉をなんとなく知ってただけ。
ちゃんと理解していたかって言われると、かなり怪しい(笑)。
特に「他力本願」なんて、現代やとほとんど悪口みたいに使われる言葉になっちゃってるよね。
「自分で努力せずに、人任せにすること」みたいな意味で。
でも本来の「他力本願」って、ぜんぜんそんな意味じゃない。
むしろ、
自力でどうにかしようとする執着を手放す
っていう、めちゃくちゃ、むちゃくちゃ深い教えなのよね。
これ、しんめいPさんも感動してた(笑)。
人間ってやつは、煩悩だらけ。
嫉妬もするし、怒りも湧く。
しょっちゅう怠けるし、見栄も張る。
モテたいし、金も欲しいし、みんなから褒められたい(笑)。
そんな人間が、「完璧に清らかになった人から救われます」なんて言われたら?
それってもう誰も救われない(笑)。
だから親鸞は、そこをひっくり返した。
悪人こそ救われる
弱さを自覚している者(悪人)こそ、「他力」に開かれる
これはもう、ザ・パラダイムシフトであり、仏教思想のアクロバット(笑)。
とにかく、めちゃくちゃ優しい教えってのがわかるかな?
そして同時に、めちゃくちゃ厳しいってことも。
だって、「自分の力で何とかできる」っていう幻想を捨てなあかんってことやから。
でも、捨てて、委ねることが救いにもなる。
現代に生きる普通の人たちは、ずっと、
「ちゃんとせな」
「自分の力で変わらな」
「結果を出さな」
「もっと早く」
「もっと強く」
そう思って生きてるもの。
そこで、
「でもそれって、苦しみを助長することになってない?」
「そこで少し、“もう世界に(阿弥陀さまに)任せてもみる”って考えてみるとかどう?」
これが親鸞の問いかけ。
何もしなくていいって意味じゃない。
やることはやる。
でもなんというか、結果を握りしめすぎない。
苦しみや執着を手放して、流れに身を任せる。
まっつんスタイル的な他力本願なら、
風が吹いたら書く。
もし風が止んだら、また吹くまで待つ。
みたいなね。
親鸞が教えてくれるのは、
諦めることは、終わりなんじゃなく、力みをほどくこと
「諦める」は、「明らめる」。
自分の弱さを明らかに、見る。
そのうえで、世界に少し身を委ねる。
すると、なぜか次の一歩が向こうからやってくる。
そんな感じ。
これ、わずかに感覚だけでも掴めたときの安堵感は、それはもう感涙もの(笑)。
「南無阿弥陀仏」
日常で、ふと唱えて、「阿弥陀さま、よろしく」って考えてみるのは、実際悪くない。
「自力とか、いらんから」(笑)。
☆ 空海──欲望の向こうに、無我がある
そして空海。
この人の突き抜け方が、またおもしろい(笑)。
龍樹や親鸞が、ある意味「手放す」方向の思想だとすれば、空海はなんというか、もっとダイナミック。
ズバリ、欲望を否定しない。
むしろ、欲望すら悟りの素材にする。
食べたい。
抱きたい。
美しくなりたい。
成功したい。
金が欲しい。
モテたい(笑)。
これ、基本的な仏教思想にケンカを売ってる(笑)。
一般的な仏教のイメージなら、
「そんな欲は捨てちまえ!」
ってなりそうなところ。
でも、空海の唱えた真言密教的には、
煩悩即菩提
こういう考え方があるんよね。
煩悩そのものが、悟りの入口になるって考え。
これ、めっちゃ斬新(笑)。
欲望を中途半端に抑圧すると、こじれるのが、人間の性。
同時に、欲望をただ放縦に垂れ流しても、当然あちこちが濁るもの。
大事なのは、欲望をちゃんと見つめて、野放しにしないこと。
そしてその欲を、正しく燃やし尽くすこと。
これやね。
これが空海の教えの核心。
例えば、事業で成功した資産家が、ある段階からやたら人格者になる、みたいなのがいい例。
最初は金が欲しい。
地位も欲しい。
名誉も欲しい。
でもそれを追い切って、追い切った先で、
「うん、結局、人が喜ぶのがいちばん嬉しいわなぁ」
みたいな境地に至る(笑)。
我欲を満たし切った先に、我欲を超える感覚が現れる。
これが、空海的な「大我」やろね。
小さな「我」や、個人的なエゴ。
それをいきなり消そうとするのじゃなく、もっと大きな流れの中に溶かして込んでいくイメージ?
「俺が、俺が!」から、「俺って世界の一部やねん!」へ。
さらにその先で、
「自分とか、もうなくてもええから」ってなるわけやね(笑)。
これ実は、まっつんスタイルの「エロモテZEN」にもかなり近いかも。
エロもモテも否定しない。
むしろ、ちゃんと見つめる。
自分の欲を恥じない、押さえ込まない。
ただし、その欲に飲まれない。
欲を燃料にしながら、最後には「自分」が消えて、軽やかになっていく。
まっつんスタイル流に言えば、
煩悩を燃やし尽くす
すると、その灰の中から、ZENが立ち上がる
まぁそんな感じ?(笑)
☆ まっつんスタイル流・「空」の三段活用
『自分とか、ないから』を読んで、まっつんスタイルの中で、三人がこんなふうに繋がった。
龍樹は、意味を手放す。
親鸞は、自力を手放す。
空海は、欲を燃やし尽くす。
龍樹の「空」:世界は固定されていないと知る
→
親鸞の「他力」:自力への執着を手放す
→
空海の「大我」:欲望を超えて大きな流れに溶ける
この三段階。
三段活用(笑)。
意味をゆるめる。
力みをほどく。
欲を“見つめ切る”。
すると最後に残るのは?
そう、
ただ“在る”
という、いつもの、まっつんスタイル的・エロモテZENの感覚(笑)。
和菓子がうまさ。
筋トレ後の爽やかさ。
断食後半の酩酊感。
ちょっとした心の交流が心地よさ。
今日もブログを書いてる充実感。
それだけで、そんなことで、もう十分、世界と繋がってる。
この“在る”っていう感覚。
40代に入ったあたりから、まっつんスタイルがずっ〜と拾い集めてるもの(笑)。
人生なんて結局、この“在る”を感じられるかどうかに行き着く。
これ、『自分とか、ないから』を再読して得られた“再確認”やね(笑)。
☆ 『自分とか、ないから』は、自己否定の本ではない
タイトルだけ見ると、『自分とか、ないから』って、なかなか強い(笑)。
最初は、
「え?自分がない?」
「え?どゆこと?」
「じゃあ俺のこの濃すぎる自意識って、なんなん?(笑)」
そんなふうに思うかもしれん。
でも実際に読んでみると、この本は、自己の存在を否定するような本じゃあぜんぜんない。
むしろ、「自分」という固定観念から、少しだけ自由になる本、かな。
自分を消すんじゃない。
自分という思い込みをゆるめる。
「俺はこういう人間や」
「これが俺の限界や」
「俺なんてどうせ変われない」
こういう硬い硬い自己像を、少しだけほどいてくれる。
そして最終的には、
「まぁ、自分とかなくても、生きてるやん」
みたいな、妙な安心感に着地する(笑)。
この“プチ悟り感覚”が、なんとも気持ちいい。
☆ 3年半、筆が進まなかった話にも励まされる
あと、最初に少し書いた、この本を読んで個人的に励まされた話。
作家としての、しんめいPさん自身の物語。
3年半、筆が進まなかったってやつ。
3年半やからね。
めっちゃ長い(笑)。
それでも、書くことをやめなかった。
そして最終的に、ネット記事から商業出版へ繋がった。
この流れ、ブログ記事の積み上げ真っ最中の今のまっつんスタイルには、めっちゃ刺さる話よね。
止まっているように見える時間も、絶対に無駄じゃない。
筆が進まない時期にも、身体の内側では、確実に何かが発酵してる。
で、ある日、それが言葉になる。
そして、その言葉が誰かに届く、こともある(笑)。
無名の一般人の言葉でも、ちゃんと届く。
これは、今の時代の希望やと思ったよね。
だからまっつんスタイルは、焦らないし、書き“続ける”ことを、諦めない。
問いを温めて、言葉を遊ばせて、風が吹いたら、ネット世界に放てばいい。
この本は、そんなふうに背中を押してくれたりもした。
「書けない(ダメな)自分」とか、「スラスラ書ける(すごい)自分」とか、ないから、ってね(笑)。
☆ 結び──自分を探すな、呼吸を感じろ
3周目(笑)。
『自分とか、ないから』を読み直して、またいろんな思いが心に去来したよね。
まっつんスタイルは、それはそれは長いこと、「自分」なるものを探してきた。
本当の自分。
理想の自分。
変わるべき自分。
モテる自分?
稼げる自分。
自由に生きる自分。
でもどうやろ?
最近は、「探す」のとは少し違う感覚が芽吹いてきたかもしれん。
「探さんくても、もうここにおるやん」みたいな。
それこそ、固定された「自分」なんてものはなくて、でも、今、呼吸している“この感じ”はある。
「それだけで、すでに尊い」っていう“気づき”、とでもいう感じ。
腹が減るこの身体がある。
文章を書きたいという衝動もある。
誰かに届いたら嬉しいという願いもある。
それでいい。
自分なんて、なくてもいい。
でも、この今は、確かにある。
このフワッとした感覚、伝わるかな〜(笑)。
まっつんスタイル的にまとめるなら、
「自分探し」はほどほどに
それよりも、呼吸してる“今”を感じること
ほら、もう“在る”
ほら、気持ちいい(笑)
『自分とか、ないから』の読後感も、きっとそんな感じ。
『自分とか、ないから』。
タイトルは、軽い表現で、でも強い意味(笑)。
そして、中身は深い。
読み終わったあとは、少しだけ肩の力が抜ける。
「あぁ、まぁこれでええのかも」
「自分とか、ないしな(笑)」
ってね。
というわけで、今日もまた「自分が自分が!」じゃなしに、なんとなく“俺っぽく”生きていくことにしよう(笑)☆


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