☆“悟り”と“快楽”は、本来ひとつのもの
「悟り」っていうと、どんなイメージかな?
禁欲。
清貧。
苦行。
無欲。
修練。
超絶ストイック・・・。
大体こんな感じ?
でも実は、これらの意味を“そのまんま”受け取るのって、そこそこ誤解。
人類の大いなる勘違いやと思うのよね。
☆
本来の悟りって、
「最高レベルの気持ちよさ」
に近いらしい。
お釈迦さま自身、極端な苦行を捨てて「中道」へ向かった人やからね。
呼吸が深く、
身体が軽く、
「自我」の雑音が消え、
世界との境界が“ほどけ”、
五感が冴え、
「これでいい」が全身に広がる。
こんなもん快感そのもの(笑)。
で、この快感こそが、悟りの入口になる道。
努力でもなく、
修行でもなく、
禁欲でもなく、
「快 = 快適 = 快処 = 快調」
この「快」が、悟り(無我)へ導いてくれる。
「みんなでこいつを体験しようぜ」
ってのが今回のテーマ。
☆脳と身体の構造上、「快」が深層意識を変える
じゃあここから、まっつんスタイル流に解説。
「過剰な努力」 → 苦 → 続かない
「快」 → 自然 → 続く
これは、「なんとなくの気分次第」とか「気のせい」じゃなしに、
ただの脳科学的な話。
☆
人間って、気持ちいいことは繰り返したくなる。
逆に、苦痛しかないことは続けるのが難しい。
もちろん、「苦からは何も得られない」って意味じゃない。
むしろ、苦痛ほど強烈に記憶されることだってある。
ただ、自分から繰り返したくなる習慣を作るなら、“快”はかなり強い。
どれだけ努力しても、
どれだけ修行しても、
「苦」がベースやと、脳は変わりにくいってわけ。
ところが「快」なら、
「これ、もっと味わいたい!」
って、自動で反復を始める。
これが、
“無我への入口”。
どやろ?
まっつんスタイルは、納得感が半端ないけど?(笑)
☆快感の正体は、“境界の溶け”にある
深い「快」の中には、
「自分と世界との境界が、一瞬薄くなる」
ようなものがある。
・美しい景色
・上質な文章
・癒しの温泉
・魅惑のエロス
・心地よい音楽
・神社仏閣の厳粛さ
・巨大建造物の威容
・魂を揺さぶるアート
・大自然の香りと温もり
・気の合う友人との会話
・ブログ記事が書けた瞬間
・好きな人と手が触れた刹那
・大好きなたい焼きの一口目(笑)
多!(笑)
でも、こういうものに遭遇したとき、脳は、
「自分(我)」が薄まって、世界と一体化してる」。
この感じ、伝わると嬉しい(笑)。
「お前はわかるんか?」
って?
うん、ちょっとは(笑)。
「夢中」とか「没頭」。
あるいは、
「放心」とか「弛緩」。
そんなふうに言い換えるとイメージしやすいかも。
これがまさに、
「“無我の予兆” = 悟りの入り口」
「快」は悟りの“雫”。
悟りは「快」の“完成形”ってね。
☆「快」を追いかけると逆に苦しくなる“快の罠”
ただし、快感には一つだけ罠がある。
言われてみれば、誰にでも心当たりがある“アレ”。
それは、
「もっともっと」という名の罠。
「もっともっと」になった瞬間、「快」は「苦」に転じる。
これを仏教では、「渇愛(タンハー)」って言ったりする。
☆
「快」は入口。
でも依存すると、出口のない地獄行き。
じゃあどうするか?
☆「快」を“静かに味わう”という智慧
「快」は追いかけるものじゃない。
「快」は、“観察して味わうもの”。
そう考えてみる。
・味わう → 自我が薄まる → 無我の予兆
・追いかける → 自我が肥大 → 苦の発生・・・
この違いがデカい。
「快」を“味わう”ってのは、
・判断を挟まない
・意味をつけない
・「もっと」を手放す
・体感だけに意識を置く
・いずれ消えると知る
こういう意識的な思考を“癖づけ”していくこと。
これが、
「快と悟りの接合点」
になる。
☆“エロモテZEN”的に言うと、快感は色気の源泉
ここでまっつんスタイル的“エロモテZEN”のターン(笑)。
「快」を味わえる人は、
・自意識が薄い
・呼吸が深い
・落ち着きがある
・無駄な緊張がない
・感性が開いてる
・観察眼が鋭い
・いつも自然体
・繊細で余裕がある
つまり、
エロいし、モテる(笑)。
逆に「快」を“追いかける”人は、
・焦り
・イライラ
・自意識の肥大
・承認欲求の暴走
・ギラつき
・不自然さ
などなどが噴出して、色気が死ぬ・・・。
このあたり、たぶん女子は、秒速で見抜く(笑)。
☆
「快」 = 色気
「快」の味わい = 無我
「無我」 = 色気の最終形態
これがまっつんスタイル的・“エロモテZENの黄金比”。
☆まっつんスタイル的「快感を悟りへ昇華する技」
さて、ここからは実践篇。
快適な日常を送るためには、どれもめちゃめちゃ大事なこと。
①五感の「快」を最優先する
五感はすべて、「今」にしか存在せん。
だから五感は無我の入り口。
香り
音
食感
温度
圧
光
風
「今、気持ちいいか否か?」
これをまず、すべての判断基準にする。
②「快」が来たら“止まる”
でも、
「快」を追わない。
「快」を掴まない。
「快」を増やそうとしない。
ただ、止まって、
そして味わう・・・。
すると、自我はスッと薄まる。
③「快」と「不快」の“差分”を観察する
人生が変わるポイントはここ。
・これは「不快」 → 何が?どこが?
・これは「快」 → なんで?どういう種類?
差分の観察が、「調律」という感性を育てる。
小さな哲学やね。
④「快」は“ご褒美”じゃなくて“ナビ”
努力の報酬として「快」を捉えると、たちまち依存になる。
だから、「快」は「道標」やと考える。
進む方向を教えてくれるだけのもの、とね。
この発想は、慣れるとちょっと気持ちいい。
⑤「快」の反復は“修行そのもの”
繰り返し味わう。
繰り返し観察する。
繰り返し調律する。
すると、
「快 → 無我 → 快 → 無我→ 快 → 無我・・・」
のループへ自然と入る。
これが、悟った人物がよく口にする
「日常が感動になる」
の姿。
☆「快」は悟りの入口であり、悟りは「快」の完成形
苦しめば苦しむほど、悟りに近づくわけじゃない。
努力そのものが尊いんじゃない。
禁欲そのものが尊いんじゃない。
苦行そのものが尊いんじゃない。
大事にすべきは、
“静かに味わう快感”
の先にある、
「自我の溶け = 無我の予兆」
そして更に、その先には、まっつんスタイルが目指し続けてる、
調和
安寧
透明感
エロモテZEN
「これでいい」の感覚
がある。
「快」を味わうことが、悟りの入り口になる理由が、まさにこれかなと。
☆
さて、どやろ?
「快」と「悟り」の関係。
全部まっつんスタイルの独自見解やけど、なかなかいい線いってると思う(笑)。
これって案外「中道」って話に近いんかもしれんね。
あとは日々の実践あるのみ。
その先に、悟りの「快」が待っとると思うから☆


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