改造車が“幼く見える”理由 〜装飾はノスタルジーか自己証明か〜


街でたまに見る、ゴテゴテに改造された車。

やたら高圧的なエアロやホイールに、よくわからん装飾の数々。

でもってあのやかましい音・・・。

ああいうのを見ると、ついつい思ってまうのよね。

「なんか幼稚やなぁ」
「大人やあれへんがな・・(苦笑)」


いやわかってる。

甚だしく“公共の福祉”を毀損しないのであれば、誰が何に乗ろうと勝手(笑)。

でも大抵の人は、俺と同じような感想を抱くと思うんやけど、どやろ?


じゃあなんでああいう改造車を見てそう感じてしまうのか?

今日はこの「なんで?」を分解してみる。


☆過剰な装飾は“落ち着きの無さ”の表れ

人って基本的に、見てほしい時ほど、盛りたがる(笑)。

これはまぁ車に限ったことじゃない。

承認欲求の可視化やね。

ファッションでも、髪型でも、はたまたSNSでも構造は同じ。

「価値観のデコレーション」とでも言うのか。


で、この「俺を見てほしいねん!」が強くなりすぎると、外からはこう見える。

「なんか落ち着き無いなぁ・・・」

あくまで印象やけど。

  • 静かでシンプルなもの → なんとなく自信がある
  • うるさくて派手なもの → どこか不安定

でもこの印象の差って、どうしたって感じるもの。


要するに、改造車が“幼稚”に見えてしまうのは、その過剰な主張の奥にある自信の無さと裏返しの不安。

そこに見え隠れする“落ち着きの無さ”を、無意識に感じ取ってしまうからなんじゃないかね。


☆大人っぽさとは「引き算の美学」

じゃあ逆に、“かっこいい大人の車”ってどんなのか?

だいたい共通してるのはこれ。

無駄がない

  • 余計な装飾がない
  • 清潔に保たれてる
  • 色数が最低限
  • フォルムがシンプル
  • でもどこか“艶”がある

これらは“余白の価値”であり、いわゆる“引き算の美学”

見せようとしすぎない。

でもちゃんと伝わる静かな自信。

この感じが、成熟した

「あぁ、大人やなぁ」

っていう印象になる。


これ、禅っぽく言うと、

飾るは恐れ、削ぐは悟り

禅では“過剰”は煩悩、“省略”は覚醒って考える。

“美しさの本質”は、シンプルさの中にこそ立ち上がるものでね。


☆若い改造は“エネルギー”として自然

うっすらとディスりモードで書いてきたけど(笑)、一応まっつんスタイルのスタンスをもう少し丁寧に書いとく。


10代〜20代の子らが改造者に乗ってるのは、まぁそこまで違和感はない。

いや、あるけど(笑)、そこまでじゃない。

むしろ、

「まぁ今はそういう時期やもんなぁ」

って思える(笑)。

なんていうか、自分というものがまだ固まってない時期。

不安定で、エネルギーを持て余してて、それでいて、承認欲求は人一倍強くて・・・。

「俺を見てくれ!」、「俺はここにいる!」がそのまま漏れ出してる。


単純に、「改造車=反社会的」ってことじゃなくて、“未社会化”の一形態やね。

「群れの中での自己表現」を模索中って感じ?

大人社会の仲間になれば、「共感される自己表現」へと自然に移行するもん。

でも、まだそこに至ってない段階やと、“浮く”

この「浮いてる感じ」が、なんとも「子供っぽい」っていう印象になるわけやね。

でもこれ、ある意味、自然で健全とも言える。


☆じゃあなぜ、中高年の改造は違和感が出るのか

で、問題はここ。

40代とか50代、それ以上の歳で、同じテンションの改造をしてる人を見ると・・・、うん、ちょっと空気が違う。

なんでなんやろ?

この「なんで?」を問うのが、今回の本丸(笑) 。


まっつんスタイルが思うに、あれはもう、

“自己主張”というより、“自己証明”

若い頃に持ってた感覚、いちばん輝いてた自分、自由やった頃の俺・・・。

それをもう一回取り戻そうとしてるんじゃないかね?

青春時代のノスタルジー的延命。

黄金期へ回帰する儀式。

「俺はまだ終わってへん!」

「ここはまだ俺の世界やねん!」

そんな、静かな叫び。

周りからどう思われても、本人的には「再生行為」であり「アイデンティティの補強」。


中高年期って、意外と“第二の思春期”やったりするのよね。

人生のピークや、心身の衰えを意識し始めるのがこの時期。

だから、これまで築いてきた自己像が揺らぐ。

その揺らぎを支えるために、「昔の自分を再演する」みたいな行動が出やすい。

そこそこの歳になってから、改造車や派手なファション、高価な時計や嗜好品にハマり出す・・・。

ぜんぶ共通して、“自己物語の補強材”の獲得行為。


☆ちょっと切ないけど、めっちゃ人間くさい

外から見れば、「イタいなぁ」とか「哀れやなぁ」って見られがち(笑)。

ごめん、正直まっつんスタイルも思う(笑)。

でも同時に、

「めっちゃ人間くさいなぁ」

とも思う。


たしかに、「成熟しなかった大人」に見えてしまう。

けど、中を覗くと、そこには“必死に自分を保とうとする魂”が見えたりする。

「時間を戻してやり直したい」っていう潜在的な願いの具現化。

それが人間臭くて、同時にどこか切ない。


精神的な成熟って、環境とか出会いとか、心の余白とか、ある程度の“運と余裕”が必要なんよね。

だから、「成熟してない大人」って、実は「成熟できる機会を奪われた人」とも言える。

ずっと現実の対応にばかり追われて、責任やプレッシャーに晒されて、“静かに内省する時間”を持てなかった。

社会の中で役割を背負って、自由を削られて、気づけば“ちゃんとした大人”になって。

結果、心の中で時間が止まってる・・・。


だからある意味、中高年の改造車って、“正直さ”の表れとも言えるかもね。

社会に合わせて“分別のあるフリ”をするよりも、本能のままに「俺はまだ燃えとるんや!」って見せてる。

それはそれで、ある種の誇り。

そう思うと、ちょっとだけ見え方が変わる。

まっつんスタイル的に嫌いじゃない(笑)。

改造車って、“自分を見せたい盛りの俺”みたいで、どこか愛おしさを感じなくもない(笑)。


ここでも禅っぽく一言。

若き飾りは未熟の香り

老いた飾りは執着の影

つまり、飾ることそのものが悪なんじゃなくて、問題は、ただそこに“今の自分”がいるかどうか。

人生の美学があるかどうか。

過去の自分にしがみつく“飾り”は、「時間の化石」になり、今を生きる“表現”なら、それは「美学」になる。


☆それでも、俺はあんま好きじゃない(笑)

まぁいろいろ書いたけど、

俺は、あんま好きじゃない(笑)

正直に言うと、その「再生行為」も、まっつんスタイルには違和感しかない(ごめん)。

どうしてもちょっと突き放したくなる。

でもそれでええかなって。

理解はできる、構造もわかる、気持ちも想像できる。

でも、

まっつんスタイルの美意識とは違う

この感覚は、ちゃんと持っていたいし、持ってていいと思う。

だって、改造車を見ると、不愉快感が湧いてくるのは止められない(笑)。

大人っぽさって、何でも受け入れることやなくて、

距離を取れること

やと思うからさ。

  • 嫌いなものは嫌い
  • かといって、頭ごなしに否定はしない
  • で、ちょっと笑いながら観察する

このスタンス。

「嫌いやけど、わからんではない」

この距離感が、一番しっくりくるのがまっつんスタイル。


☆改造車は、成熟度を映す鏡

「ええ歳こいて改造車て・・・」
「もうええやろ?」

そんなふうに思ってしまうのはたぶん、

装飾そのものの問題じゃなくて、そこにある“心の状態”を感じ取ってるから

飾ること自体をどうこう言うつもりはない。

でも、

  • 過去を飾ってるのか
  • 今を飾ってるのか

ここで印象は大きく変わる。

やっぱりまっつんスタイルは、こういう“禅的な時間感覚”で物事を見ちゃうのよね。

そうするとどうしても、「意識が今に無い」とか、「過去への執着」というものに、未熟さや幼さを感じてしまう。


車もファッションも、言葉も振る舞いも、その人の鏡

どう飾るかで、その人の“成熟観”が見える。

改造車は、まさにその鏡そのもの。


もちろん本来は、否定も肯定もされるべきことじゃないんやろうと思う。

まぁでもごめん、それでもやっぱ、俺はあんま好きじゃない(笑)


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