読書量と人間の深さは比例しない 〜読書コンプレとの付き合い方〜


本が好きでね。

本屋さんも作家さんも好きやし、オーディオブックもよく聴く。

小説もエッセイも、歴史本も宗教本もおもろいと思う。

ついでに、文章(ブログ)を書くのも好き。

でもねぇ、不思議なことに、

いざ読書ってなると、意外と集中できない

これ、結構リアルな悩みやった。


どうも気が散りやすくて、長時間の読書ができない。

読みながら他のことを考えてしまって、ページを行ったり来たりとか・・・。

ホント昔からずっと。

それこそ学生時代から。

・・・なんなんやろね?(笑)


☆“読書量コンプレ”という、静かな劣等感

世の中には、“本をたくさん読んでる人”がおる。

いわゆる「多読家」ね。

部屋にずらっと並んだ本棚。

会話の端々に出てくる固有名詞とか、文学的言い回し。

いかにも読書経験で培った教養の高さがうかがえる、みたいな人。

正直、ちょっとかっこいい(笑)。

実際そういう人と出会うこともある。

で、そんな時、だいたいこんなふうに思ってしまう。

あぁ、こういう人に比べて、俺の考えてることなんて浅いんかなぁ?

ってね。


読書量が少ない自分は、知識も多くないし、ちゃんとした教養もないような気がしてしまう。

なんとなく感じる、敗北感や劣等感らしきもの・・・。

これ、同じこと思ってる人、結構おるんちゃうかな?


まっつんスタイルは、日本人の平均読書量(月一冊程度)よりはさすがに読んでるけど、それでもね。

ちょっと読書家とは言い難い・・・。


☆「読書量=思考力」ではないという視点

でも最近になって、ようやく腑に落ち始めたことがあってね。

それは、

読書量と思考の深さは別物

ってこと。


本を読むって、言ってしまえば「他人の思考を取り入れる行為」。

あるいは「自身の思考思索のきっかけを作る行為」。

もちろん大事やし、価値があること。

でも結局、

自分で考えた時間の総量

の方が、その人の思考を形作る本質なんやと、まっつんスタイルは思うのよね。


自身の経験から、観察し内省した時間の質と量。

問いを立て、自分の言葉で、自分にとって“気持ちのいい解”を得ようともがいたプロセス。

禅の僧侶も、古代ギリシアの哲学者もみんなそうやったはず。

これだけ本が世の中に溢れかえってるのは現代特有のこと。

昔は本なんか珍しかった。

でも、本なんか無くとも、人は社会や人間の本質に迫ることができる。


読書量と思考の深みや人格の向上は、必ずしも比例しないってことでいいと思う。

読書っていうのは、思考を深めるためのパーツのひとつ。


☆読めない理由は、能力不足じゃない

“読書量コンプレ”はいらんってことは腑に落ちた。

じゃあなんで本が読めないのか?本を読むことが苦手なのか?

これも最近わかってきた。

たぶんまっつんスタイルは、

読む人間じゃなくて、考える人間

インプットよりアウトプットが得意な人間


本を開いた瞬間、

「これ自分の言葉で言うなら・・・」とか、「これって、あん時のあれやな・・・」とかって、勝手に思考が走り出す。

つまり、“読む”という受け身の行為よりも、

考える・感じる・言葉にする

こっちにエネルギーが流れてまう。

だから集中が続かん。

そんな感覚?


あと正直、「なんとなく先が読めて萎える」とか、「レベルの低さを感じて飽きる」とかもあるかな。

ごめん、「何様?」かもしれんけど、あるのよ(笑)。

ピタッと本質が見えてしまって、やたら感情が動きやすい。

だから、長時間集中して読書ができない・・・。

でもこれ、欠点じゃなくて性質なんやと、最近ようやく思えるようになった。


☆本じゃなくて現実を読んでいる

もう少し言えば、まっつんスタイルはずっと、

本じゃなくて、現実を読んできた

のかもしれん。

人の表情、場の空気。

体の変化、生活のリズム。

あとは男心の脆さ、女心の揺らぎ(笑)。

農業者としての経験ももそうやし、健康に目覚めてからのライフスタイルもそう。

数えきれないコンプレックスも、クライムやリグレットも(苦笑)。

日常そのものが、全部、読み解くべき“教材”。

それを観察して、考えて、言葉にする。


読書があろうとなかろうと、それらが積み重なって、

まっつんスタイル哲学

として、十分成立してる(笑)。


☆「〇〇を読んでない奴は・・・」という呪い

たまにおるやん、「ニーチェを読んだことない奴は・・・」みたいなこと言う人。

「ドストエフスキーを読んだことがある奴とない奴とでは・・・」とか。

正直、ゲンナリ。

なにそのマウント?(笑)


思想とか文学って本来、人を自由にするためのもんやと思うけどね。

それを“踏み絵”とか“パスポート”みたいに使ってどうすんねん、と。

ニーチェやドストエフスキーが生きてたら、たぶんこう言うと思う。

「別に読まんでもええから、自分の頭で考えろや」

って(笑)。


☆「読む人」と「生む人」は違う

もうひとつ。

読書コンプレに対する考え方として気づいたことがある。

世の中には、

  • 知識を蓄えるのが得意な人
  • その場で言葉を生み出すのが得意な人

って、この2タイプがおるんちゃうかな。

いわば、

「参照型の知性」と、「創発型の知性」

前者は、膨大な知識を引き出せる。

この記事の冒頭で書いた、「いかにも読書経験で培った教養の高さがうかがえる、みたいな人」がそう。

後者は、そこにない言葉を生み出せる。

まっつんスタイルは、この後者、・・・でありたい(笑)。


例えば、「社会科学」と「人文科学」の違いとか、「官僚」と「政治家」の違いって言うとわかりやすいかも。

いや、逆にわかりにくい?(笑)

まぁつまり、どっちが上とかじゃない。

役割が違うだけ。


☆読書できないことは、弱点ではない

ここまで考えたら、「本が読めない自分」への見方がちょっと変わる。

これは欠点でも劣等でもなくて、

ただの特性

本を読むことよりも、感じて、考えて、言葉にする。

このプロセスを重視して生きてきたって、それだけ。

そう思えたら、「本が読めない」ってことに対する妙な弱点意識とは無縁でいられる。


これはもうあらゆる記事で書いてる、まっつんスタイル哲学そのものやね。

「知らない」「できない」「やったことない」・・・。

どれも「別にえんちゃう?」っていう“ZEN的視座”を持てたら、もう無敵(笑)。

読書もその例外じゃない。


☆読書量より思索量

本を読むことは、素晴らしい。

でも、

本を読めないからって、思考が浅いわけじゃない

読む人もいれば、ただ生きる人もいる。

そして、まっつんスタイルはたぶん、

読むより、生きてる側の人間

読書量は少なくても、思索量は誰より多い。

本は読めんかったけど、人生は一字一句、読んできたからね☆


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