倫理の正体を軽く分解してみる 〜人間の「正しさ」は意外と脆い?〜


「倫理」っていう言葉があるよね。

正しさ、善悪の善、道徳的・・・。

そんなイメージで語られることが多い言葉。

辞書的には、「人として守り、行うべき道 / 善悪・正邪の判断において普遍的な規準となるもの」なんだそう。

でもこの言葉、よくよく考えてみると、なんとも曖昧で、少しばかり不思議でもある。

人間なぜ、「人を傷つけてはいけない」と思うのか?

倫理って、そもそもどこから来るのか?

少し整理してみると、倫理にはいくつかの正体があるように思えてくる。

今回は、どえらい重いテーマを、まっつんスタイル流に軽〜く書いてみる(笑)。


まず、一番わかりやすいのが、「社会のルール(秩序維持)」。

倫理には、社会秩序を支えるルールとしての側面がある。

殺すなかれ、盗むなかれ、嘘をつくなかれ・・・。

最低限、こういったルールがないと人間社会は成立しない。

つまり倫理は、「社会維持のための装置」。

これはなんとなく想像しやすいかな。

ここでは、善悪云々よりも、秩序の問題と言ったほうが近そう。

もし、「人を殺してもいい社会」やったらどうなるか?

人は、とてもじゃないけど、安心して暮らせない。

だから社会は、「人を殺してはいけない」っていうルールを作る必要がある。

倫理の一部は、こういう社会の安全装置として存在してるってわけ。

これはまぁ間違いないやろう。


ただ、倫理をルールとしてだけ見るのは、さすがに狭い。

もう少し内側に踏み込んだ要素もあるように思う。

それは、まっつんスタイルが思うに、「共感のシステム(人間の本能)」。

人間には、誰かの痛みを見て、思わず顔をしかめたり、「大丈夫?」みたいに声をかけたりする感情もある。

これは、誰にでも、いつでも同じように働くわけじゃない。

でも、「他人の痛みを自分とまったく無関係なものとして扱えない感覚」とでもいうのかな。

これも、倫理を支えているものの一つなんじゃないかと思う。

倫理の一部は、生物としての感情から来てる気もする。


そしてもうひとつ。

「物語(自分はどう生きたいか)」としての倫理。

これは、我ながら一番おもしろい。

倫理には、“個人的な層”があると、まっつんスタイルは思うのよね。

それが、「生き方の物語」。

人って意外と心の中では、「自分はこういう人間でありたい、こういう人間ではありたくない」って思ってるもの。

例えば、「親切でありたい」「弱い者をいじめない」「嘘はつかない」なんかは分かりやすい。

で、これも先ほどと同様、法律じゃない。

必ずしも、誰かに強制されたルールというわけでもない。

自分の美学。

倫理の一部は、「自分がどう生きたいか」という物語を構成してる。

この発想、ちょっとおもしろくない?


ここまで、まっつんスタイルなりに雑に分解すると、倫理には大きく三つくらいの層があるように見える。

社会のルール。

共感のシステム。

そして、自分のストーリー。

こう考えると、どうやろ?

俺らが普段、「正しい」と思ってるものって、意外とグラグラ揺れうるものなんちゃうかなと。

いかが?


そう、以前、「人はどこで一線を越えるのか?」っていう記事を書いたことがある。

そのときのニュアンスに近いかも。

例えば、人が暴力を正当化していく過程を、さっきの三つで眺めてみると——

・社会のルール → 「どうせ社会は守ってくれん!」

・共感のシステム → 「相手は人間じゃない! 怪物や!」

・自分のストーリー → 「これは正義のためなんじゃい!」

こういう状況の変化が起これば、倫理なんてのものは、あっけなく崩れ去るものかもしれん。

なんかこれも想像がつきそう。


人が一線を越える瞬間って、突然やってくるわけじゃないとも思う。

その手前で少しずつ、“越えてもいい理由”が作られていくこともあるんちゃうかな。

ルールが揺らいで、共感が薄れて、物語が書き換わる・・・。

そのとき人は、越えてはいけない一線を越えてしまう、と。


人間社会にある「倫理」。

俺らが「これは正しい」と思って、それを守り続けようとする心。

それって案外、そこまで頑丈な代物じゃないのかもしれん。

社会と、本能と、物語の間で、なんとか保たれてる“脆いバランス”の産物。

だから人は守ろうとするし、それでも、ときに壊してしまう。

倫理とは、人間の尊さの証明であると同時に、脆さの証明でもあるのかもしれんね。

まぁ今回は軽くこれくらいで☆


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