ふと、運転中に問いが浮かぶ。
「人は殺人を犯すとき、それをどう正当化するんやろ?」
「人はどういうプロセスを経て、殺人を決意するんやろ?」
ちょっとおもしろくない?
いや、悪趣味とは、言わんといて(笑)。
まっつんスタイルが興味あるのは、殺人そのものじゃない。
「人はどうやって、“越えてはいけない一線”を越えるのか?」
っていう、人間心理のグラデーションの話。
殺人は、その究極みたいなもんやからね。
普通に生活してたら、
「人を殺そう」
なんて、まず考えない。
仮に一瞬頭をよぎったとしても、
恐怖。
罪悪感。
倫理。
逮捕されるリスク。
その後の人生。
いろんなものがブレーキになる。
だから、映画や小説で、登場人物がわりとあっさり、
「殺すしかない」
みたいな結論に到達すると、まっつんスタイルはどうしても思ってまう。
「いや、もっと悩めよ!」
って(笑)。
そこに至るまで、もっとグチャグチャするんちゃうの?
「やっぱ無理」
「いや、でも他に方法がない」
「でも殺人やぞ?」
「いや、でも・・・」
って。
まっつんスタイルは、そこが見たい。
人間の倫理が、壊れるのか、曲がるのか、書き換えられるのか。
その瞬間を見たい。
いわゆる「文学的視点」。
あぁこれ、極めて崇高な観察ね・・・(笑)。
☆実際に小説を読んでそう思った
今、奥田英朗の『ナオミとカナコ』を読んでてね。
これがおもしろい。
DV夫に苦しめられてる女性と、その友人。
追い詰められた末に、
「だったら、殺してしまおう」
という方向へ話が進んでいく。
もちろん、物語の中ではそこへ至る理由がちゃんと用意されてる。
恐怖がある。
逃げるのも難しい。
このままだと、さらに危険なことになるかもしれない。
だから、
「殺すしかない」
そういう発想が出てくること自体は、物語としてわからんでもない。
でも、まっつんスタイルは、やっぱ思ってしまった。
「もっとそこ見せて(笑)」
殺人を思いついた瞬間から、
「よし、やろう」
になるまで。
その間にあるはずの、
逡巡。
罪悪感。
恐怖。
倫理。
衝動。
自己正当化。
そのへんがグチャグチャになるところを、もっと見たい。
殺人そのものより、
「普通だった人の中で、“殺人”という選択肢が現実味を帯びていく瞬間」
に興味がある。
我ながら、だいぶ嫌な読者やね(笑)。
☆でも、リアルに描いたら、たぶん地味?(笑)
ただ、考えてみれば、そこを本当にリアルに描こうとすると大変やと思う。
「殺そう!」
「いや無理」
「でも・・・」
「やっぱ無理」
「いや、でも・・・」
「警察は?」
「逃げる?」
「いや・・・」
って、
全然話が進まん(笑)。
人間の迷いなんて、実際は同じところを何周もする気がする。
だから小説では、物語を前へ進めるために、そのあたりをある程度圧縮することもあるんやろね。
なんか冷めるけど(笑)。
もちろん逆に、そこを延々と描く文学もある。
まっつんスタイルは、そっちも好き。
出来事より、
「この人、今、頭の中どうなってんの?」
が気になるタイプ(笑)。
☆人はどうやって「ダメ」を書き換える?
で、ここからが本題。
殺人に限らず、人間って、
「やったらあかん」
って分かってることをやるとき、頭の中で何かしらの処理をしてると思うのよね。
例えば最初は、
「それはダメ」
やったもんが、
「いや、今回は事情が違う」
になる。
さらに、
「そもそも相手にも原因がある」
になる。
そして、
「これは仕方なかった」
になる。
場合によっては、
「むしろ、やるべきやった」
にまで変わる。
不思議よね。
最初から倫理そのものが消えるというより、
同じ行為に対する“意味づけ”の方が変わっていく感じ。
「悪いことをする」
じゃなくて、
「必要なことをする」。
「自分のため」
じゃなく、
「誰かを守るため」。
「自分が選んだ」
じゃなく、
「あいつがそうさせた」。
こうやって考えてみると、
人間が一線を越えるときって、
線そのものを消すというより、“今回はここだけ線の外じゃないことにする”のかもしれんね。
なんとも微妙な表現(笑)。
そして人間って、なんとも器用な生き物(笑)。
☆「普通の人だから大丈夫」でもない
ここで思い出すのが、有名な「ミルグラム実験」。
「権威ある人物から、ある指示をされたとき、人はどこまで他人に苦痛を与える行為を続けるのか」
っていう実験。
興味深いのは、参加者がみんな平然としていたわけじゃないってこと。
葛藤したり、不安になったり、やめたがったりする人もいた。
それでも、実験者から続けるよう促される中で、かなり先まで進んだ人がいたっていう。
これ、おもしろいよね。
倫理がなかったわけじゃない。
苦悩も葛藤もあった。
それでも、状況や権威とのせめぎ合いの中で、自分が思ってた以上のところまで進んでしまうことがある。
いや、この実験結果をもって、
「だから普通の人でも、簡単に殺人者になる!」
なんて話じゃない。
そこまで単純なら、人間観察なんかおもしろくもなんともない(笑)。
同じ状況でも、やる人もいれば、やらない人もいる。
踏みとどまる人もいる。
状況に流される人もいる。
だから気になる。
おもろい(笑)。
人格だけでもない。
環境だけでもない。
その間で、人間の心はどう動くんやろって話。
☆『罪と罰』がおもしろいのも、たぶんそこ
そう考えると、『罪と罰』ってやっぱりすごい。
ドストエフスキーのあれね(笑)。
主人公・ラスコーリニコフは、自分の中で殺人を理屈にしていく。
「この人間を殺すことは、本当にただの悪なのか?」
そんなふうに、自分なりの理屈を組み立てて、一線を越えていく。
でも、実際に一線を越えたあと、
その理屈だけでは、自分自身を支えきれなくなる。
まっつんスタイルが見たいのは、たぶんこういうところ。
「なぜ殺した?」だけじゃない
「殺す前と殺した後で、その人の中の何が変わった?」
ここ。
殺人事件そのものより、
一人の人間の中で、世界の見え方がどう変形していくのか。
だから心理描写の多い作品が好きなんやろね。
☆「自分は絶対にやらない」と言えるのか?
で、ここで自分に問いが返ってくる。
「じゃあ、自分は殺人を犯すのか?」
今の自分なら、
「いや、やるわけないやん」
って思う。
そらそう(笑)。
でも、
「どんな状況でも、絶対に、絶対にやらない人間か?」
って聞かれると・・・、うん、ちょっと自信ないかも(笑)。
完全に逃げ場がない。
大切な人が危険にさらされている。
誰も助けてくれない。
自分自身も極限まで追い詰められている。
そんな状況になったとき、
今ここでコーヒー飲みながら文章を書いてる自分と、同じ倫理観、同じ冷静さ、同じ判断力を保っていられるか?
これはわからん(笑)。
ここなんよね。
「俺もいざとなったら殺す」
っていう勇ましい話じゃない。
逆。
極限まで追い詰められた自分が、どんな人間になるのかを、俺は知らん
この「知らない」は、なんとなく持っておいた方がいい気がする。
☆人間を過信しない
昔のまっつんスタイルなら、
「人間というものは、いざとなったら“やる”」
とか書いてたかもしれん。
でも今は、そこまで言い切れる気がしない。
やる人もいる。
踏みとどまる人もいる。
逃げる人もいる。
誰かに助けを求める人もいる。
自分がどれになるかは、実際その場に立たんとわからん。
だからこそ、
「俺は善人だから大丈夫」
とも思わない方がいいんよね。
人は、
小悪党にもなる。
英雄にもなる。
卑怯者にもなる。
もしかすると、一線を越えることだってある。
その全部を、
「自分とは関係ない人間の話」
にしない。
これって、人間を疑ってるというより、
人間を過信しないってことなんかもしれんよね。
もちろん、自分自身も含めて。
このへんの解釈。
やっぱおもろい(笑)。
☆これ、ちょっとZENっぽい?
こういう人間観って、なんとなく仏教っぽさも感じる。
怒り。
妬み。
欲。
執着。
そういうものを、
「“あれ”は悪い人間が持つもの」
として、自分の外に追い出さない。
自分の中にもある。
状況によっては、大きくなることだってある。
だから、
「俺にはそんなものはない」
じゃなく、
「あ、今あるな」
って観る。
まっつんスタイルZEN的には、こっちの方がしっくりくる。
「自分の中にも危うさがある」
と知ることと、
「だから危うさに従う」
ことは、別。
むしろ、
あると知ってるから、距離を取れる。
怒ってる。
追い詰められてる。
判断がおかしくなってる。
今の俺、ちょっと危ない。
そうやってZEN的観察できれば、
一線を越える前に、離れることもできるかもしれんよね。
☆オチ
人は善人なのか。
悪人なのか。
たぶん、そんな綺麗には分けられない。
そして、
「自分は絶対に一線を越えない」
と言い切れるほど、人間は単純でもない気がする。
だからこそ、
逃げ道を残す。
誰かに助けを求める。
自分の怒りや恐怖を、
「こんなの俺じゃない」
と追い出さず、一回観る。
人間の危うさを知ることは、
たぶん、人間を怖がることじゃなく、人間を過信しないこと。
もちろん、自分自身も含めて。
そう考えると、最初の、
「いや、もっと悩めよ!(笑)」
も、ちょっと違って見えてくるかな。
葛藤って、めんどくさい。
グルグルする。
消耗する。
話も進まない(笑)。
でも、
その「迷い」こそが、一線の手前で、人間を踏みとどまらせてるものなんかもしれんね。
「人は、どこまで悩めば、一線を越えずに済むんやろ?」
今日はそんなお話☆


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