心理学より、禅や芸術に救われることもある〜「治す」のでなく「観る」という態度〜


☆「お前に何がわかんねん!」問題

自己啓発や心理学の世界で、よく聞く言い方。

「それは自己肯定感が低いからですね〜」
「親子関係の影響かもしれませんね〜」
「成功体験が少なかったんじゃないでしょうか?」
「それって認知の歪みだと思いますよ」

云々・・・。

うん、わかる。

たしかに、言ってることは間違ってない。

むしろ当たってる(笑)。

実際、こういう説明で救われる人はおるやろし、認知行動療法やコーチングみたいなアプローチが、現実に効果を持つことも知ってる。

というかまっつんスタイルも、こういうアドバイスが道標になったことが大いにあるし。

でもねぇ・・・、なんかイヤなのよ。

矛盾してる自覚はあるんやけど、ど〜にも気持ち悪いっていうのが正直なところ。

なんていうのか、軽く見透かされた感じ?

型にはめられた、みたいな?

で、心のどこかがこう叫ぶのよ。

「お前に何がわかんねん!」って。

これは別に、反知性とか反心理学とか、そういう話をしたいんじゃなくてね。

ただ自分の人生をさ、昨日今日出会ったばっかの誰かに、いきなり一言二言で説明された感じがなんかね。

イラッとすんのよ(笑)。


☆「なんかイヤ」の正体

たぶん、この違和感の正体は、「説明」と「物語」の衝突やとまっつんスタイルは思う。

心理学やコーチングは、人を説明する。

一方、現実の人間は、自分の人生を物語として生きてるもの。

例えば、「父親がいなかった、母親に気を遣って育った、その結果、自責傾向が強くなった」などなど。

こういう説明って、たしかに論理的で筋が通ってる。

でも、こっちからすると?

「いや、そんなんで全部分かったみたいに言わんといてくれる?(イラッ)」ってなる(笑)。


正直言うと、腹が立つのは、図星を突かれたことへの反発もあると思うのよ。

でもたぶんそれだけじゃない。

説明が間違ってるからでもない。

なんか平板やから。

長い時間をかけて生きてきた、感情、関係、空気、沈黙、偶然、執着、あきらめ、妙な癖・・・。

こういうもの一つひとつの重みが、特定のモデルに回収される感じ?

それが、どうも軽く扱われたように感じてしまう。

これって、説明の正しさと物語の厚みが衝突してるってことなんじゃないやろかね。


☆心理学が悪いとは言ってない

ここ、誤解されたくないところやからもう一回言っとくけど、別に心理学を否定したいわけじゃないからね。

認知行動療法も、コーチングも、実際に効く人には効く。

それはもうズバリ効く。

むしろ、めちゃめちゃ合理的。

行動パターンを分析して、変化を加えて、苦しみを減らす。

思考の癖を調整して、毎日を少しずつ生きやすくする。

これは普通に大事なことやし、その効能も間違いない。

さっきも言った通り、まっつんスタイルもその恩恵に預かったことがある。

でもねぇ・・・、やっぱり自分にはどこか深く馴染まない感じがね、拭えない。


なんでなんやろ?って考えてみて、とりあえずの仮説。

言葉を選ばず言うなら、心理学的アプローチって根本的に、「より機能的な人間」に近づけるための技術やと思うからなんじゃないかね。

自分を責めすぎず、柔軟に考える。

過度な不安を減らし、人間関係を円滑にする。

全部まっとうで、全部社会的に正しい。

でもどうやろ?

その背後にどうしても、ある種の“平均値の人間像?”みたいなものがあるように感じてしまうんよね。

で、そこからズレてる自分が、“軽く矯正の対象”として見られてる感じ?

そこに、どうにも拭えない息苦しさがあるわけ。

だから、人の話を、心理学の枠組みに当てはめながら聞かれると、なんか無性に腹が立つ。

ていうか、気味が悪い(笑)。

あの聞かれてるんじゃなくて、分析されてる感じ

「専門家の話を、そんな風に解釈することがそもそも・・・云々」みたいなことまで言われそうなあの感じ?


まっつんスタイルは、人をパターンとして理解したいわけじゃなくて、矛盾や揺れごと、そのまま眺めていたい。

伝わるかね?


☆政治でも医療でも学問でも救われない人が、芸術に救われる

あと、まっつんスタイル的に大事なポイント。

政治は社会を整え、医療は体を(時には心を)治す。

学問は世界を説明し、心理学は心を調整する。

どれも必要。

どれも重要。

でも、そのどれを駆使しても、どうしても救われない人が世の中にはいるという事実。

そういう人が、ふと手にした小説や漫画、あるいは映画や音楽のワンフレーズに救われたりすることがある。

なんでか?

芸術は、治さないし、矯正しないから。

「こうしたらラクになりますよ」とは言わない。

「その悩みの原因はこれですよ」とも言わない。

ただ、「そういう人間もいる」「こういう心の動きもある」と示すだけ・・・。

それだけで、人の心が救われることがある。

心理分析されたときより、小説を読んでるときの方が、「あぁ、人間って」と深く腑に落ちることがある。

涙と共にスッと心が軽くなることがある。

それはたぶん、文学や芸術が、人を説明するんじゃなくて、体験させるからやと思うのよね。

モデルじゃなくて、物語で触れてくれるから。


繰り返すけど、これは優劣の話じゃない。

まっつんスタイルは、そういうものの方が好きって話。


☆禅がしっくりくる理由

で、ここでやっぱり禅が出てくる。

まっつんスタイルが禅にしっくりくる理由は、たぶんめっちゃシンプル。

あんな修行の様子なんかを見てると意外かもしれんけど、禅って本質的には人間を矯正しないのよね。

「こういう人間が理想です」
「この性格は改善すべきです」
「その思考は間違っています」

みたいなことを、あんまり言わないもの。

禅はただ、「そういう心がある」って言う。

以上。

それを治そうとも、克服しようともしない。

未熟でもええ、揺れててもええ、みっともなくてもええ。

「そういう姿を、ただ観る」っていう、この感覚。

まっつんスタイルなんかは、「そうそう、そういうこと」ってなるわけ。

こっちは整えられたいんじゃなくて、観られたい。

もっと言えば、自分で観たいって感じ。


☆まっつんスタイルの立ち位置

きっと、認知行動療法とかコーチングの、自己理解や自己受容の感覚は、禅とも共通するところが多いんやとも思う。

だから、「否定はしないし、効能も認めるけど、ただ思想としては深く馴染まない」ってところ。

使える人には、大いに使えるもの。

まっつんスタイルにとっては、「世界観」というより「道具」やね。

「必要なら使うけど、帰る場所じゃない」って、そういう感じ。


心理学は、心を説明し、整える。

禅は、ただ心を観る。

文学は、あらゆる手法で、人間を描く。

じゃあ、まっつんスタイルは?

たぶん、「人間を観察して、言葉にして、おもろがる」みたいな?(笑)

教えるでも、導くでも、治すでもなくて、「いやぁ、人間って、ホンマややこしいなぁ(笑)」とか言いながら、一緒に眺める感じ。

しょーもない小悪党もそう、醜い嫉妬心もそう。

愚かな一発逆転願望もそう、惨めな啓発中毒もそう。

全部、人間の矛盾。

で、その矛盾を無くそうとするんじゃなくて、むしろその矛盾の中に、“人間の味”を感じとる。

もっと曖昧で、もっと個別で、まるッとその矛盾を許す。

治すより、観る。

矯正するより、言葉にする。

答えを出すより、問いを深める。

これが、まっつんスタイルの「モテエロZEN」。


☆モテエロZEN的まとめ

モテ = 人間関係のリアル
エロ = 生命力と衝動
ZEN = 観察と距離感

この三つを重ねてみる。

人間は、そんなに簡単に整わない。

そもそも「整った人間」ってなんやねん?って話(笑)

矛盾も、未熟さも、情けなさもある。

でも、だからおもしろい。


心理学が人を説明するなら、まっつんスタイルは人を観察する。

心理学が心を整えるなら、まっつんスタイルは心の匂いを言葉にする。

そういう方が好きなんやろう。

説明されるより、観察されたい。

いや、もっと言えば、自分の物語を、自分の言葉で観察していたい。

それでいい。

それが、まっつんスタイル☆


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