池井戸潤の小説に乗れなかった話 〜半沢直樹の“推進力”だけでは物足りない〜


☆やたらと評判がいい池井戸潤作品

最近、池井戸潤さんの『空飛ぶタイヤ』がめちゃくちゃ評判がいいって話を耳にしてね。

「とにかく感動するから絶対読んだほうがいい!」

そんな声をあちこちで見聞きしたのよ。


いや、知ってる知ってる。

池井戸先生の作品はいくつか読んだことがある。

映画やドラマは知らんけど。

知らない作品も、内容も、完成度も、だいたい想像がつく。

品行方正、清廉潔白で質実剛健。

そんな真っ直ぐで立派な主人公が、仲間と共に数々の苦難を乗り越えていく。

勧善懲悪の成功譚。

『鉄の骨』、『陸王』、『下町ロケット』、そして『半沢直樹』。

たぶんあの企業ものの系譜やと思う。


もちろん、間違いなくおもしろい。

さすが元バンカー。

業界描写は驚くほど緻密で、キャラクターも立ってる。

七転八倒しながらも、最後にはスカッとさせてくれる極上のエンタメやと思う。


☆池井戸作品が提供してるものって何か?

これ、完全に俺の主観ね。

かなり乱暴に言うとやけど、

  • 世界は基本的に理解可能
  • 善悪は最終的に整理される
  • 努力は(遠回りしても)実を結ぶ
  • 正しい人は必ず最後には報われる

これが池井戸作品の価値でありわかりやすさ。

そりゃもうめちゃくちゃ気持ちいい(笑)。


だから『空飛ぶタイヤ』も『陸王』もあれもこれも、社会人が明日も働くための物語なんよね。

企業人の応援歌でありビタミン剤。


特に疲れちゃってる人にとっては

「そうそうこれやねん!、こういうのでええねん!」

ってなるやつ。


☆でも、正直に言うと、俺はそこまで惹かれない


うん、そうなのよ。

「わかる、わかるんやけど・・・」

その先に、どうにも言葉になりにくい物足りなさが残る。


どうしても俺が思ってまうのは、

「人間って、そんなに整ってるやろか?」

「そんなに正しくて、そんなに一貫してて、そんなに都合よく“報われる”生き物やろか?」

ってこと。


俺が惹かれるのは、もっとなんというか、不可解な人間なのよね。

愚かで、狡猾で、醜悪で、合理的なフリをしながら、平気で非合理な選択をする。

正しさに救われるどころか、正しさによって余計に苦しむような存在。

これ、いわゆる「サイコパス」とは違う。

ぶっ壊れたサイコパスの物語もおもしろいけど、ここで俺が言ってるのはもっと“普通の人間”。

“普通の人間”が、普通に晒す“歪さ”を描いた作品に、俺は惹かれる。


しかも結論が曖昧で、後味が悪くて、

「で、これは何やったんや?・・・」

って思索に沈んでしまうような作品。

そういう物語のほうが、“俺は”なぜか心に残る。


だから、文学寄りの感性とでも言うのかな。

世界が「わかってしまうこと」に、むしろ物足りなさを感じてしまう。

これは優劣とか正誤の話じゃなくて感性の話ね。


☆『半沢直樹』がハマらない理由もたぶんここ

『半沢直樹』の「毒を持って毒を制す」。

あれも気持ちいいよね(笑)。

→ 痛快
→ カタルシス
→ 勝敗がこれ以上ないほど明瞭

実際の社会で「倍返し」できたらどんだけいいか。

現代の企業戦士の気持ちを代弁してくれてる半沢は、まさにヒーロー。


でも、ひねくれ者のまっつん的には・・・、

  • そんな綺麗に勝てる?
  • そんなにサクッと割り切れる?
  • で、その後は?、ホンマに救われてる?

どうしてもそんな疑問が残る。

なんていうか俺は、勝った後の空虚とか、正しさが残した歪みに興味があるタイプなんかな。


だから「羨ましさ」と同時に「歯痒さ」っていう感情が湧いてくる。

  • 手放しで感動できる人が羨ましい
  • そこに行けない自分が歯痒い
  • 行けない自分をちょっと持て余してる

これ、良くも悪くも、感性が一回転こじれてしまってる人あるあるやと思う(笑)。


なんか嫌味ったらしいかな?

でもわかる人はわかると思うけど。


☆“推進力”という感性と、“抑止力”という感性

「答えをもらう物語」より「“問い”が残る物語」がハマる人もいる。

これも俺の主観、というか仮説やけど、実際そういうことちゃうかなと。

  • 後味が悪い
  • 結論が曖昧
  • 救いがあるんかないんかわからん
  • でも忘れられない

こういう作品が俺みたいな人間の感性には刺さる。

例えば・・・、角田光代の『八日目の蝉』とか、重松清の『疾走』とか、貫井徳郎の『愚行録』とか・・・。

これはたぶん、人間という生き物の解像度を極めたい、人生をもう一回噛み直したいという感性


くどいけど、誤解のないようにもう一回。

ここまでの話は、池井戸作品が悪いってことが言いたいんじゃない。

「浅い」って言いたいわけでも、「低俗」って言いたいわけでもない。

完全に好みとか方向性の話ね。


池井戸作品はたぶん「推進力」の物語やと思う。

世界を前に進める。

明日も働くためのエネルギーをくれる。

それはそれで、社会には絶対に必要。


で、俺はたぶん「抑止力」の物語が好きなんやと思う。

立ち止まらせて、そして考えさせる。

簡単に答えを出させない。

こういう「抑止の感性」も、社会には絶対必要。


☆小説って、結局は自己対話

「面白かった」とか「感動した」よりも、

「自分は、どこで引っかかったか」

そこにこそ、読書、とりわけ小説を読むことの醍醐味があると俺は思う。

小説を読むことは“自己対話”。

作品に、その時の自分がそのまま映る。

“自分の感性との邂逅”やね。


だから今回の『空飛ぶタイヤ』礼賛に乗れなかった話も、別に気にしてるわけじゃなくてね。

世間の感性とズレてたっていいと思うのよ。

むしろ、そのズレを無理に矯正しようとするほうが危うい。

自分を見失いかねない。

ズレを認識して、受け容れて、

「あぁ、俺は今、こういうものに惹かれてるんやな」

と知る。

そしてそれ自体が、実は尊い“自己成長”なんやと俺は思う。


☆最後にちょっとだけ“モテエロZEN”の話

スカッと爽快で、わかりやすく、誰からも好かれる物語って、どこか“優等生的”。

一方で、少し不穏で、わかりにくくて、言葉にしにくい余白を残すものには、“妙な色気”がある。

全部を説明しない。
全部を回収しない。
そして余白を残す。

これって実は、モテも同じやと思わへん?

正しさを並べ立てるより、矛盾や迷いを抱えたまま静かに立っているほうが、人は惹かれたりする。

「魅力は不完全なものにこそ宿る」というのは、まっつんスタイル流“モテエロZEN”の奥義であり真髄(笑)。

ZEN的に言えば、「答えを出さない」という在り方。

エロ的に言えば、「見せすぎない」という美学。


推進力と抑止力。
正しさと違和感。
説明と余白。

世の中は、その両方があって成り立ってる。

そして、物語も、人間も、たぶん同じ。

俺はたまたま、「スカッとしない物語」のほうに自分の影を見てしまうだけ。

まぁでもそれでいいと思ってる。

これはホンマにそう思ってる(笑)。

そう思えてる自分を、今日はいつもよりちょっとだけ深く愛でることにしよう、かな☆


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