今日は、
「人が育つ場所と開花する場所って、実は違うんかもしれんなぁ」
みたいな。
なんか、そんな話(笑)。
☆
まっつんスタイルは、長く京都の山奥で暮らしてきた。
自然いっぱい。
静けさもある。
空気もきれい。
それはそれで、めちゃめちゃありがたい環境やったと思う。
しかも農家やってたしね(笑)。
実際、あの場所で育ったものってたくさんある。
身体。
社会性。
孤独と付き合うたくましさ。
自然との共生力。
季節の変化を愛でる感性。
たぶん、今のまっつんスタイルのかなりの部分、あの環境で作られたのは間違いない。
だから今、関東に移り住んだけど、京都が悪かったってわけじゃない。
農業の経験が無駄やったわけでもない。
むしろ大いに必要やったんやと思う。
☆
でも同時に、心のどこかでずーっと思ってた、
「これが完成形ではないなぁ」
っていう本音。
ここで一生を終える感じはない。
そう思ってた時期もあったけど、どうも違う。
ここで自分の全部が開く感じでもない。
うまく言えんけど・・・。
そう、育つ場所ではあった。
でも、開花する場所じゃなかった。
そんな感じ?
☆
そういえば、
「置かれた場所で咲きなさい」
っていう有名な言葉があるよね。
たぶん多くの人を励ましてきた言葉。
でも同時に、誤解や誤用されてきた言葉でもある気がする。
どこか、
「今いる場所で我慢しなさい」
みたいに聞こえるからね。
もちろん、そういう意味じゃないはず。
でも、
合わない環境でも?
苦しい場所でも?
自分を殺してでも?
そんな疑問はどうしても持たれがち。
☆
でもたぶん、あの言葉の本質は、
「まずは、今ここを受け入れなさい」
「今ここにないものばかり追いかけるのはやめなさい」
なんやろうなと。
今の自分。
今の環境。
今の人生。
それをまず否定しない。
無駄に抵抗しない。
必要以上に戦わない。
受け入れるべきは受け入れる。
考えてみればこれ、かなり禅っぽい。
☆
そう、禅って、
今ここから逃げない。
今ここをジャッジしない。
今ここにあるものを、まずそのまま観る。
そんな思想やから。
だから、
京都の山奥にいた20年も、
孤独やったことも、
うまくいかんかったあれもこれも(笑)、
全部ひっくるめて、まずは受け入れる。
そこから始まるんかなと。
☆
でも、ここで大事なんが、
“受け入れることと、居続けることは違う”
ってことやね。
感謝することと、固定されることも違う。
あの山奥の暮らしを愛してたし、農家として営めたことに感謝もしてる。
でも、人生の最終地点かどうかとは別。
だってそう、考えてみたら、有名な禅の坊さんだって移動バンバンしとる(笑)。
修行のために寺を出る。
旅をする。
師を探す。
環境を変える。
人生そのものが、移動の連続。
☆
植物には、その植物に合う土壌ってある。
で、人にもたぶん、合う土壌ってあるのよね。
都会で元気になる人もいる。
田舎で回復する人もいる。
組織の中で力を発揮する人もいる。
一人になって初めて開く人もいる。
刺激が必要な人もいれば、
静けさが必要な人もいる。
どれが正しいとかじゃなくてね。
ただの相性問題。
環境との噛み合わせ。
☆
だから、
「今いる場所でがんばれない自分はダメ・・・」
みたいな判断は、焦って出すこともないと思うんよね。
もちろん、
“どこへ行っても自分はついてくる”。
これもまた、まっつんスタイルの持論ではある(笑)。
環境を変えれば全部解決する、なんて単純な話ではないのもそう。
でも、
“環境が合っていないと、力が出にくい”
ってこれ、ホント、普通にあるからね。
花にも、咲きやすい土や季節があるように。人にも、そういうものがちゃんとある。
やっぱここでも、常に解釈に自由さを持たせる「中道感」やな(笑)。
☆
そう、
「ここで完成じゃない」
っていう違和感は、ただのワガママで片付けない方がいい。
未来の自分からの小さなサイン。
次の場所へ向かうための静かな合図なんかもしれん。
あえて、そんなふうに考えてみる。
☆
振り返ると、京都の山奥は、まっつんスタイルを育ててくれた場所。
体も、
心も、
過去との距離感も、
新しい価値観も、
全部あそこで育った。
だから感謝してる。
これはホンマ。
でも、次は、開花する場所へ行く。
育ててもらったことと、そこを離れることは、別に矛盾しない。
感謝と移動は両立するはず。
☆
だからいいのよ。
「置かれた場所で咲きなさい」
っていう言葉は、
「置かれた場所を否定しなくていい」
やけど、でも、
「そこで一生咲け」
とは言ってない。
これくらいの解釈でオッケー(笑)。
まずは受け入れる。
味わう。
感謝する。
で、必要なら移動する。
☆
人生って、置かれた場所で咲く物語というより、
“自分が咲ける場所を探す旅”
そういうもんなんかもしれん(笑)☆


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