「白隠ダルマ欲しい!」から始まったご祈祷体験
「禅」を学び始めて最初に出会うのは、当然、開祖である「達磨大師」。
「面壁九年」、「不立文字」、「無功徳」・・・。
そう、あの偉大な「達磨さん」。
そして、
「あの、赤くて、倒しても起き上がる、ダルマ人形の元ネタの人?」
そんなことを思った瞬間、これまで単なる縁起物としてしか見ていなかった赤いダルマが、あら?、なんだか急に別の顔をし始める。
そんな気がした。
ちょうどその頃、部屋に置く“縁起のいい置き物”を探していた俺。
「太陽の塔」と「東京タワー」のフィギュアはすでにある(笑)。
じゃあ次は何や?
そう考えたとき、こけし?、信楽たぬき?、招き猫?・・・
「あぁ!ダルマ?、ダルマええやん!」
ってなった(笑)。
「そういえば森見登美彦の小説にも、やたらダルマ出てくるしなぁ」
などと思いながら何気なくネット検索してみる。
すると、必然のようにヒットしたのが
「京都・円町の法輪寺(通称:達磨寺)」
思いっきりダルマ売っとる。
しかも、申し込めばご祈祷もしてくれるらしい。
「え?、ダルマにご祈祷?、マジ?」
さらに調べると、普通のダルマだけでなく、「白隠ダルマ」まで取り揃えてあるという。
白隠禅師の描いた「ダルマ画」に似せて作られたのが「白隠ダルマ」。
ここで、俺のテンション爆上がり!(笑)
「あかん!、欲しい!」
これはもう、
「行け!法輪寺へ!」
っていうサイン以外のなにものでもなかろう。
☆円町の住宅街に、異空間はひっそりとあった
当日は平日の午前中。
円町の静かな住宅地の中に、法輪寺はひっそりと佇んでいた。
参拝者は、俺と一組の外国人カップルのみ。
このカップル、俺の見立てではカフカスから来た人(笑)
受付のおばちゃんは実に気さくに、「今日は空いてますよ〜」ってなもんで、慣れた様子。
そしてその背後には、ずらりと並んだダルマが。
もうイヤでも目に飛び込んでくる。
「おぉ!ダルマやん」
と思わず口元が緩む。
そして俺が欲しかったサイズの「白隠ダルマ」は・・・、なんと在庫ラスト一個!
「あぁ、やっぱ持ってるわ、俺」と独りごつ(笑)。
もちろん、ご祈祷の申し込みを半笑いで済ませ(笑)、しばらく境内を散策する。
本堂、庭園、そして漂う空気。
思わず感嘆の吐息。
派手さはないけど、自然と背筋が伸びる。
禅寺の厳粛さが持つ“重み”のようなものがそうさせたのかもしれん。
そして圧巻だったのが、お堂に居並ぶ無数のダルマ、ダルマ、ダルマ!
正直、ちょっと笑てまうくらいダルマ(笑)。
そこは、まさに非日常の異空間。
☆ダルマに囲まれて始まったご祈祷
ほどなくして、ご祈祷の準備が整う。
無数のダルマが納められた別のお堂に案内され、達磨大師像の前に正対する。
ご住職と、名前と住所の確認を少しだけやり取りして、いよいよ始まった・・・。
最初は静かなマントラ。
「オンダーマソワカ」・・・、やったかな?(うろ覚え(笑))
が、しばらくして、空気が一変する。
ご住職が立ち上がり、太鼓を「ドッカンドッカン!」叩きながらの般若心経。
さらに座り直し、今度はお鈴と台座を「バシッ!バシッ!」叩きながらの読経。
そして途中、突然の大音声。
圧倒的ど迫力!
「ビクッ」て、ホンマにに身体が跳ねた(笑)。
「うおぉ、これが臨済宗の「喝」か・・・」
心地よい驚きとともに、妙に冷静な自分もおった。
俺の名前も読み上げてもらって感無量。
ちょっとした恍惚と陶酔・・・。
読経は10分か、15分か。
時間感覚はけっこう曖昧。
最後は、お鈴の静かな音色とともに終了・・・。
☆何者でもなくなった、あの一瞬
いや〜、ホント貴重な初体験やった。
あとから振り返って思う。
あの大音声の瞬間、俺は“何者でもなくなった”んじゃないかと。
言葉と、声と、音が作る空間。
緊張と平静が共存した刹那。
経歴も、
年齢も、
過去も、
未来も、
全部すっ飛んだ。
ベータ波、ついでにガンマ波まで出てたけど、しっかりアルファ波も出てた。
そんなことを思わせる、形容しがたい不思議な感覚。
でもそれは、日常で身体にまとわりついた“意味”が剥がれ落ちた感覚。
これがきっと“無我”の片鱗。
坐禅も、念仏も、公案(禅問答)も、そして“喝”も、“我”を溶かし、世界と一つになる手法なんだと改めて実感。
こんなこと言うと一気に“危ない空気”が漂うかもしらん(笑)。
でも冗談抜きで、
「あら?、仏さまのパワー、宿った?」、「ていうか俺、仏さまになった?」
そうマジで感じた。
☆「必達」「不倒」「七転八起」
最後に、ご住職と一言二言言葉を交わし、自分でもビックリするくらい深々と頭を下げた(笑)。
そして念願の「白隠ダルマ」を受け取る。
満面の笑みで(笑)。
そこには、俺の名前とともに、
「必達」
「不倒」
「七転八起」
の文字が、力強く書かれていた。
「不倒」は俺のリクエスト。
「必達」と「七転八起」はご住職のアドリブ(笑)。
持ち帰った「白隠ダルマ」は、さっそく「太陽の塔」と「東京タワー」の横に鎮座させる。
「うん、すばらしい」
一人ご満悦(笑)。
数日経った今でも、心の奥でフツフツとした“ダルマエネルギー”が残ってるから不思議。
このエネルギーは、もしかしたら“余計な不安が薄らいだからこそ滲み出てくるもの”かも?
「あっ、なんか俺、やれそう」
みたいな。
言葉にすればそれだけの感覚やけど、こういうのが大事なんやと、今は思う。
☆信心は、好奇心から始めればいい
今回の体験で思ったのは、信心とか、畏敬、畏怖の念って、心をめちゃくちゃ安らかにしてくれるってこと。
信じるとか信じないとか、科学的か非科学的かとか、そういうことは一旦横に置いといて。
人知を超えた“なにか”に身を委ねたとき、人はある種の安堵感を得られる。
難しく考えんでええ。
正しく理解しようとせんでええ。
好きかも。
なんか気になる。
ちょっとおもしろそう。
ダルマさんめっちゃ欲しい(笑)。
仏教なんて聞くと小難しいイメージがあるけど、最初はそんな軽い好奇心で十分。
俗世から少し距離を取り、“無我”に近づく営みは、ものすごく“ラク”で気持ちいい。
そんな京都・円町の法輪寺でのご祈祷体験。
「白隠ダルマ」は、今日も部屋の片隅で、黙って俺を睨んでいる☆


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