「悟り」とは、人間に戻ること 〜山で無我を知り、街で我を遊ぶ〜


☆ 「悟り」って、もっと“すごいもの”やと思ってた

さて、今日は、「悟り」についてのひとりごと(笑)。

昔は、“悟った人”なんて聞くと、

・オーラがすごい

・超能力的な直感がある

・感情に波がない

・常に笑んでる

・聖人のごとき人格

そんなイメージを持ってたもの。

でも、「禅」とか「老荘思想」を掘っていくと、

「むしろ逆なんじゃね?」

って思うようになってね。

いや、逆というか、ホンマに“悟った人”って、

パッと見、普通の人

なんちゃうか、と。

怒るし、泣くし、落ち込むし。

たぶん怠けもする(笑)。

でも、決定的な違いは、

その感情や衝動に飲み込まれないこと

「あぁ、怒ってるなぁ」

「焦ってるなぁ」

「執着してるなぁ」

てな感じで、どっか俯瞰して、静かに見つめていられる。

そんな感じちゃうかと。

だから「悟り」って、

“無感情”じゃなくて、“無抵抗”

に近い気がする。

なんかそう考えると、一気に理解が深まったような納得感があるよね。


☆ 中道と「ほどほど」は微妙に違う

仏教でよく言われる「中道」。

悟りの境地に至る上で、めっちゃ重要な概念とされてる。

で、この中道も、かなり誤解されやすい考え方みたいなんよね。

「何事もほどほどに」

「バランスよく」

「いい塩梅で生きましょう」

って、うん、もちろんこういう理解でも間違いじゃないんやろうと思う。

でも、本質はもっと深いみたいでね・・・。

お釈迦さまって、もともとは一国の王子さまやった。

贅沢三昧の日々。 

でもこれだと、“世の真理”に辿り着けないって思って、今度は極端な苦行に走る。

断食。

睡眠拒否。

呼吸制限・・・。

どれも死にかけるレベル(笑)。

でも、そこでふと気づく。 

「あれ? これ、苦行そのものが執着になってるやん・・・」

って。

快楽も執着。 

でも、苦行もまた執着。 

どちらも、「こうでなければ」っていう“我”の暴走。

だから「中道」って、

「ちょうど真ん中」

っていうより、

“どちらかの極端を握りしめないこと”

なんちゃうかなと。

「ちょうどいい」っていう解釈から、もう一歩踏み込む。

たったこれだけのことで、ものの見方って随分変わるのよね。

「悟り」というものの本質に、グッと近づける気がする。


☆ さらにややこしいのが「中道であらねば」

で、ここからも、また禅っぽくておもしろい(笑)。

「そうか!じゃあ中道を意識しよう!」

って思った瞬間、

“中道への執着”

が始まる(笑)。

要するに、

「極端に振れないようにしなきゃ」

「執着しないようにしなきゃ」

「自然体でいなきゃ」

っていう、新しい“なきゃ(ねばならぬ)”が発生するわけよね。

まぁなんと人間っぽいこと(笑)。

だから、本当の中道って、

“中道を意識してない状態”

なんかもしれん。

ややこしいけど、こういうややこしさ、まっつんスタイルの大好物(笑)。

極端に振れてもいい。 

怒ってもいい。 

欲に飲まれてもいい。 

ただ、

「あぁ、今振れてるなぁ」

って気づくことで、人は自然と戻ってくる。

この“戻る力”こそが、おそらくは中道の真髄なんかなって。

中道とは、「静止した正解」じゃなくて、“揺れながら戻るリズム”

こういう理解の仕方も、「悟り」の“体感”を身近なものにしてくれる。

まっつんスタイルにとってはそう。


☆ 老子と釈迦は、実はかなり近い?

これも、掘れば掘るほど思うやつ。

老子の「無為自然」と、釈迦や龍樹の「空」。

かなり似てる。

「悟り」といったら、仏教の専売特許っぽい(笑)。

でも、まっつんスタイルには、どちらも、

「世界を自分の思い通りにしようとする、その“握りしめ方”を疑ってみる」

ってところで、通じるものがあるように感じるんよね。

老子の「無為自然」は、“何もしない”じゃなくて、 

「余計なことをしすぎない」

っていう感覚のことやと思う。

努力を盲信しすぎない。

物事に意味づけしすぎない。

自分を操作しようとすぎない。

そうじゃなくて、

“自然にそうなる流れを信頼する”

っていうこと。

これって、龍樹の「空」にも近い気がしてね。

龍樹は言う。 

「すべては“縁起”」

「この世に固定された実体はない」

と。 

自分、成功、失敗、正義、意味・・・。

全て、固定されたものじゃなくて、一時的な“関係性の現れ”にすぎない、と。

だから、何かに執着しすぎると、人生は途端に苦しくなる・・・。

そう、老子も釈迦も、たぶん、

「握りしめるな」

って言ってるんよね。

で、「握りしめすぎない」ことが、すなわち「悟り」に近づくひとつの道なんちゃうかと。


☆ 書こうとしない時に、言葉は降りてくる

こういうことって、例えばブログでもよくある気がする。

「書かなきゃ」

「更新しなきゃ」

「結果出さなきゃ」

そんなときほど、まぁ書けん(笑)。

でも、ただお風呂に入ってるときとか、運転中とか、ぼーっとしてる時に、

“向こうから言葉(アイデア)が来る”

みたいな瞬間がある。

あれ、完全に老子的って気がしてる(笑)。

無理に掘ろうとせず、自然に来るまで、もしくは湧くまで、待つ。

創作って、“努力”というより“自然現象”

みたいな発想?

これ、別に怠惰じゃない。

むしろ、「大きな流れを信頼する」という、極めて高度な感覚やと思うんよね。

で、どうやら人生も同じ。 

操縦しようとすればするほど、おかしなことになりがち。

風を読んで、流れを感じて、必要な時だけ帆を張る・・・。

これくらいで、実はちょうどいいんかもしれん。

悟った人は、“人生をコントロールしようとしすぎない”もの・・・。

ここまで来られたら、生きるのってホント楽になりそう(笑)。


☆ 『十牛図』の「九」と「十」

禅には、十牛図っていう有名な図があってね。

悟りへのプロセスを、牛を探す旅に例えて描いたもの。

これまた、まっつんスタイルの大好物(笑) 。

その中でも、特にお気に入りなのが、後半の九図と十図。


・九図:「返本還源(へんぽんげんげん)」

牛も自分も忘れた、その先。

そこには、ただ、いつもの自然がある。

花が咲き、水が流れる。

何か特別なものを見つけたわけじゃない。

ただ、世界がそのままそこにある・・・。

そんな画。

これがいかにも「悟りの境地」っぽい。

でも、悟りって、ここで終わりじゃない。

禅は実は、山に籠もって終わる思想じゃないんよね。


・十図:「入廛垂手(にってんすいしゅ)」

大きな流れに身を任せた人(悟った人)は、また街に戻ってくる。

ここが笑える(笑)。

市場(いちば)へ行き、酒を飲み、人と笑い。

ときに働き、泣き、恋をし、たい焼きを食う(笑)。

でももう、何にも囚われてはいない。

実はこれこそが、“悟りの究極形”っていうね(笑)。

十図ってどうやら、

「“普通の人に戻る”という悟り」

を描いてるんよね。

これがねぇ、なんかめちゃ好き(笑)。

悟った人って、別次元の聖人じゃない。

意外と普通の人(笑)。


☆ 京都の山奥から、みなとみらいへ

思えばまっつんスタイル。

京都の山奥で約20年。

自然の中で、静けさを味わい、孤独を味わい、自分と向き合ってきた。 

・・・とも言える(笑)。

これってば、十牛図で言えば、

「“九図的時間”やったんちゃう?」

とか、“試しに”考えてみる(笑)。

そして今、

「次は横浜みなとみらいかなぁ」

みたいなとこにおる。

でも、それは別に、“成功したい”とか、“洗練された都会人になりたい”とか、そういう感じじゃなくてね。

もっと自然に、

「そろそろ下山かなぁ」

「なんか“街”に触れたいなぁ」

くらいの感覚?(笑)

山で無我を知り

街で我を遊ぶ

それくらいの感じ?

「それくらいの感じで、“在れれば”いいな〜」

っていう。

これは単なる、妄想であり願望(笑)。


☆ 結び:悟りとは、たい焼きを美味しく食べられること?

悟り。

それは、超越でも特別でもない。

偉業ではあっても異形ではない(笑)。

たぶんシンプルに、

「人生を“ちゃんと”味わえること」

なんかな、とか思う。

怒ってもいい。

泣いてもいい。

迷ってもいい。

ただ、どこかで静かに戻ってこられる。 

夢中になれる。 

呼吸が深まる。 

無心に還れる。

それだけで、人って、かなり自由でいられる。

しかもそれが、ちょっと気持ちいい(笑)。

だから悟りは、

「人間をやめて超人(?)になること」じゃなくて、“ちゃんと人間に戻ること”

きっとそういうこと。


山を下りたモテエロZENの男は

今日もみなとみらいで

たい焼きを食いながら笑ってる 

まぁ最後は、ようわからん一編(笑)。

けど、こんなんでええ。

こんなんがええ。 

こんなんがたぶん、まっつんスタイルの十図の世界☆


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