家族とはなにか 〜血縁だけでは説明できない、“安心と自由”の話〜


今日は、家族の話。

とはいえ別に、「理想論」とか、「べき論」を語りたいわけじゃなくてね。

たまに、

「なんか俺ら、家族みたいやな?」

って言うあれ、なんなんやろ?

って話。

職場とか友人関係とか、いろんな場面でちょこちょこ出てくる言葉。

いや、友達なら「友達」でええやん?

仲間なら「仲間」でええやん?

なのに、なんでわざわざ「家族」って言いたくなるんやろ?

なんか、そこには“独特の親密さ”がある気がするわけ。

子どもの頃は、そんなこと思わんもんかもしれん。

親がおって、兄弟がおって、同じ家に住んでてって。

それが家族やったから。

でも大人になると、意外と気づく。

血がつながってても、なんとなく距離を感じる人。

逆に、血縁でもないのに、妙に安心できる人。

そう感じることのできる存在がおることに。

さて、今日はそんな話。


☆「家族=血縁」っていう当たり前

世間一般で「家族」と言えば?

親子。

夫婦。

兄弟姉妹。

戸籍。

同居?

まぁそんなイメージかな。

早い話が、血縁や婚姻、戸籍上のつながり。

まずは、そういう関係を思い浮かべるよね。

実際、家族制度って、暮らしや社会を支える大事な仕組みでもあると思う。

でも、ここは『まっつんスタイル』。

人間の、もう少し深淵で複雑な感覚として考えたとき、

「家族ってホンマにそれだけなんやろか?」

「それって絶対的な価値なんやろか?」

を、“あえて”掘ってみる(笑)。

血がつながってるだけで安心できるかっていうと?

そうでもない。

一緒に住んでるだけで心が通うかっていうと?

それも違う。

むしろ、近すぎるからこそ難しい。

近すぎるからこそ傷つく。

そんなこと、世間を見渡せば普通にある。

一方で、血のつながりもなければ、一緒に暮らしたこともない相手に、

「なんか家族みたいやな」

って思うことがある。

そう考えると、“家族っぽさ”って、意外とふわふわした不思議なものな気がするんよね。


☆「安心」と「自由」が同時にある関係

もうちょい、まっつんスタイルなりに考えてみる。

「じゃあ、家族っぽさの正体ってなんやろ?」

愛情?

血縁?

責任?

義務?

本能?

もちろん、いろんな要素があるんやろう。

でも、まっつんスタイルは特に、

「安心」と「自由」

この二つが大事なんちゃうかなと思うけど、どんなもんかね?

安心させようと干渉しすぎたら、息苦しい。

自由やからって放ったらかしやと、さみしい。

近すぎても、しんどい。

遠すぎたら、不安になる・・・。

だから結局、

お互いが安心しながら、ちゃんと自由でもいられる

このなんとも形容しがたい距離感。

そこに、

血縁を越えた“家族っぽさ”

が生まれるような気がするんやけどね。

あと、もう一つ。

多少カッコ悪い自分を見せても、その関係が簡単には消えないって思えること。

これも、案外デカい気がするかな。

何も話さず、ぼーっとしててもいい。

失敗したり、弱音を吐いたりしてもいい。

だらしない姿や、みっともない姿を晒したり。

たまには意見が食い違うこともある。

しばらく会わなくても、次に会えば普通に話せる。

毎回、相手に気に入られるための面接を受けんでええ、みたいな(笑)。

そういう安心感がある関係。

そういう関係って、ずいぶんラクに呼吸できる気がするんよね。

なんかまた、禅の「中道」みたいな話になってきた?(笑)


☆一緒に住むことより、一緒に呼吸できること

で、これが今回、いちばん言いたいことかもしれん。

家族って、「同じ家に住んでる血族」って言うより、

お互いの存在を尊重しながら、程よい自由と緊張の中で、“自然に呼吸できる間柄”の誰か

そんなふうに定義してみるとおもろいかもってこと。

長いけど(笑)。

沈黙が苦じゃない。

無理して話さなくていい。

変に気を遣わなくていい。

自分を大きく見せなくていい。

常に自然体。

で、大事な場面では、全力でサポートし合える。

そんな相手?

たぶん人間って、なによりもまず、

「そのままでいても大丈夫」

って思えることで安心するものなんちゃうかな。

別に、何でも許してくれるとか、絶対に意見がぶつからんとか、そういうことでもなくてね。

ちょっとした失敗や、気まずさや、沈黙があったくらいで、いちいち関係の存続を心配せんでいい。

そういう間柄。

それを感じさせてくれるのが、“家族っぽさ”の正体の一つなのかもしれん。

・・・と、まっつんスタイルは考えてみたけど、いかが?(笑)


☆人は、育てながら育てられてる?

あと家族っていうと、「親が子どもを育てる共同体」って、そんなイメージも強いよね。

これまた、その通り。

でも、「人が人を育てる」って意味では、いろんな形がある気がするわけ。

子どもに育てられる親もいる。

夫婦で成長することもある。

友人に救われることもある。

先生が教え子から学ぶこともある。

ネット上の誰かの言葉に、人生を動かされることだってある。

人間関係って、一方通行じゃないからさ。

誰かを支えてるつもりが、気づけば自分も支えられてる。

そうやって、お互いの人生に少しずつ関わっていく。

一緒に過ごした時間の中で、相手の考え方やクセがわかってくる。

失敗も見てきた。

いいところも、ちょっと面倒くさいところも知ってる(笑)。

で、それでも付き合いが続いてる。

もしかしたら、こういう時間の積み重ねも、「家族みたい」と感じる理由の一つなんかもしれんね。

教育であり、“共育”?

・・・うまいこと言った?(笑)。


☆血縁より先に、感性でつながることがある

他にも例えば、同じ映画を観て泣く。

同じ景色を見て立ち止まる。

同じ言葉に救われる。

同じことで笑う。

そういう瞬間も、「なんか家族みたいやん」を感じるきっかけって気もするかな(笑)。

血のつながりとか、別にない。

育った環境も違う。

まったく違う人生。

でも、

「あぁ、なんかこの人、通じる?」

みたいな感覚?

不思議やけど、たぶん人間って、血だけじゃなくて、感性でもつながることができる生き物なんちゃうかな。

いや、趣味が合うだけで家族になれたら苦労せん(笑)。

でも、小さな「通じた」が積み重なって、いつの間にか、無理して自分を説明せんでもええ関係になってたりする。

相手も、自分のことをだいたいわかってくれてる。

こっちも、相手のことをだいたいわかってる。

で、わからんところがあっても、別にそれでええ。

変に装う必要がなくなる。

そこまでいくと、なんかまたちょっと、家族っぽい。

だから、友人が家族みたいになることもあるし、恩師が親みたいになることもある。

人生の途中で出会う、そういう「ご縁」も、考えようによっちゃあまた、一つの家族なんかも。


☆家族の形はひとつじゃない

家族(血族)と円満な人もいる。

不仲な人もいる。

そもそも結婚する人もいれば、しない人もいる。

子どもを持つ人もいる。

持たない人もいる。

再婚する人もいる。

一人で生きる人もいる・・・。

昔はいざ知らず、現代社会は、どれが正解とか、たぶんもうない。

で、今回考えてみたかったのは、そういう家族の形の優劣でもない。

ただ、

「この人とおると、なんか家族みたいやな」

って思える相手が、血縁の外にも現れることがある。

その不思議さ?

その相手とは、自然体で呼吸できる。

お互い自由でいられる。

少々カッコ悪いところを見せても、関係が簡単には消えないって思える。

そう考えると、「家族っぽさ」って、形式よりも、二人の間に育ってきた関係性の話なんかもしれんなって。

まっつんスタイル的に締めてみたけど、どんなもんかね?(笑)


☆おわりに

戸籍に書かれた名前も家族。

安心して呼吸できる相手も、なんか家族っぽい。

血がつながってることは尊い。

でも、それだけが全てでも絶対でもない。

自由があって。

信頼があって。

適度な距離があって。

少々カッコ悪い自分を見せても、関係が簡単には消えない。

そんな間柄が育ったとき、人は自然と、

「なんか俺ら、家族みたいやな(笑)」

って笑うんやろね。

職場で、チームで、家の外のあらゆるところで。

「家族みたい」って、なかなかいい褒め言葉やと思う。

相手に対して、

「あなたといると、無理して自分を演じんでええんです」

って言ってるようなもんやからね。

・・・いや、実際そんなこと言われたら、ちょっと照れるけど(笑)。

まぁ、家族の定義なんて、まっつんスタイルが勝手に決められるもんでもないけどさ。

ただ、人生の途中で、

「なんか家族みたいやな」

って思える人が、一人でも増えたら、それって素敵よね。

血縁は増やせん場合もあるけど、そういうご縁なら、きっとまだまだ増やせる。


いや、なんでこんなネタを書いたかっていうと、

「家族ってものを、そんなふうに考えた方が、人生おもろくね?」

って、ただそう思ったからってだけのこと。

まぁさすがに、「世界は家族」とか、そんなことまで言うつもりはないけどさ。

あ? 途中で言いかけたか?(笑)。

というわけで今日も、血縁家族でもない誰かを誘って、スタバにでも行くことにする。

・・・あ、いや、そんな相手、まっつんスタイルおらんかった(笑)☆


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