☆ 第五章:生贄は野蛮か?――現代社会に残る「見えない供犠」
古代の生贄の儀式を、「野蛮」と切り捨てるのは簡単。
でも俺らって、ホンマにそれを「野蛮」って言えるほど、ちゃんと卒業できてるんやろか?
神殿も祭壇もないだけで、今もどこかで、誰かが何かを“差し出してる”気がせぇへんかね?
そんなふうに穿つのは、まっつんスタイルだけ?・・・
★ 現代の“生贄”はどこにいる?
・SNSで燃やされる誰か
・過労で倒れる会社員
・匿名のネット民に叩かれる芸能人
・数字のために心を削るインフルエンサー・・・
こういう人たちを見て、「可哀想」って思う。
でも同時に、俺らは無意識に、「自分はあっち側じゃない」って安心してるようなところがあるよね。
もし古代の村人にも、「自分じゃなかった」という安堵があったとしたら・・・。
そう、現代社会にも、バッチリ「供犠っぽい構造」が残っとると、まっつんスタイルは思う(笑)。
★ 犠牲によって保たれる秩序
古代では、祭壇に誰かの命を捧げ、秩序を保っていた。
現代では、炎上やスキャンダルで誰かを吊し上げて、“正義の側にいる安堵”を享受してる。
「悪は裁かれた」
「自分たちは正しい」
その安心感はまるで、「天が鎮まった」と信じる古代人と同じ構造に酷似してない?
SNS社会は、デジタル神殿(笑)。
そして、俺らは祭司にもなり、聴衆にもなり、ときに生贄にもなるという・・・。
いや、ふざけてるけどそこそこ真面目。
でも同時に、情けなくて笑えてもくる(笑)。
★ 経済の中の供犠
現代だと、会社っていう組織がまさにそうかなって。
目標未達の部署は切り捨てられる。
誰かが責任を負って“処分”される。
で、ときどき、
「こんなもん、半分儀式やん?」
って思うことがある。
だって、次は自分かもしれんから・・・。
生贄が出ることで、組織は一瞬の安定を取り戻す。
「膿みは出しきった」
「再発防止策は講じた」
「うん、これで大丈夫」
これが、「神に雨を乞う儀式」の現代版でなくて、なに?(笑)
★ 美しさと残酷さは表裏一体
「誰かが傷つくことで、結果的に回ってるもの」
これ、悲しいかな、世の中にけっこうあるよねって、まっつんスタイルは思ってしまう。
でも同時に、そこに“美学”を見出してしまうのもまた、人間の性(さが)。
たとえば芸術家が、己の人生を削って生み出す作品。
たとえばスポーツ選手が、限界まで自らを追い込む姿。
たとえば恋愛で、自らを犠牲にしてでも誰かを思う心・・・。
人は、自己犠牲の中に崇高さを見出す。
これって、「供犠のDNA」に見えんかね?
残酷でありながら、どこか美しい自己陶酔。
この見立ては、いかが?
★ まっつんスタイル的・エロモテZEN解釈
「自分を削る姿はエロい」
これは、まっつんスタイルでもたまに出てくる命題かもしれん(笑)。
タトゥーがそうやった。
痛みを通して「生」を刻む。
恋もそう。
報われる保証もないのに、時間も感情も、余すことなく相手に差し出す。
その根底にあるのは、「誰かのために在りたい」という“祈り”。
生贄の儀式の中には、もしかすると、
「自分以外の誰かを救いたい」
そんな衝動が混じってたこともある。
人間の“生”も営みも肯定したいまっつんスタイルは、やっぱりそう思いたい。
★ “供犠”から“共生”へ
で、ここまで考えてきて、思う。
「供犠」の反対側に、「共生」って置けへんやろか?
誰か一人に痛みを押しつけるんじゃなくて、できる範囲で分け合う。
他人の失敗を許したり、自分の欠点を笑ったり。
「犠牲を差し出さなくても、世界って案外回るんちゃう?」
そんな方向へ、少しずつでも行けたらええよね。
・・・とかなんとか(笑)。
そしてラスト、第六章。
この「供犠から共生へ」を、「エロモテ」っていう、まっつんスタイル流のテーマに落とし込んでみる。
そこそこ力技で(笑)。
「捧げる恋」から「分かち合う愛」へ・・・。
☆ 第六章:供犠から共生へ ――「捧げる恋」から「分かち合う愛」へ
今回の記事では、生贄の中に、
「自分以外の何かのために、大切なものを差し出す」
そんな“祈りの姿”を見てきた。
でも、その美しさが歪んでいくと、「犠牲を前提にした愛」へと姿を変えることもある。
これは恋愛でも、友情でも、仕事でも、あらゆる人間関係で起こり得ること。
そして、誰しも心当たりがあるとも思うわけで・・・。
★ “捧げる恋”の呪縛
「あんなに尽くしたのに・・・」
「あなたのために、これだけ犠牲を払ったのに・・・」
そうやって自分を削ってまで愛そうとするのは、古代の祭壇に血を流した生贄に近しいかなと。
そこにあるのは、“与える愛”のように見えながら、仄かに“支配の匂い”がする気がしなくもない・・・。
「これだけ犠牲にした」が増えていくほど、愛ってなんか重たくなっていく気がする。
そしてなにより、自分自身の心身を蝕むもので・・・。
★ “分かち合う愛”への進化
まっつんスタイル的に言えば、モテる男は、
「“捧げる”んじゃなくて“分かち合う”」
「一緒に楽しもう」
「お互いの時間を尊重しよう」
「無理のないやり方のほうが続くやん」
こういう自然体の愛し方。
それはもう、供犠じゃなくて共生。
奪い合いや犠牲の構造から、より自由になった愛の形。
それは、支配でも服従でもなく、お互いが「在る」ことを許容し祝福する関係。
エロモテZEN的な成熟した愛。
うん、なんか気持ちいい言葉が並んだ!
どんなもんやろ?(笑)
★ “痛みを共有する”という新しい祈り
とはいえ、痛みそのものを消すことはできない。
また、消す必要もないかなと。
むしろ、痛みを共有できるからこそ、人は深く結ばれる側面もない?
古代の生贄が、村全体の平穏を願ったように、俺らは、誰かと心を通わせることで「世界の均衡」を取り戻す。
「痛み」に、何かしらの意味を見つけられる瞬間もある。
・泣きながら抱き合う恋人
・一緒に失敗して笑い合う友
・自分の弱さを正直に語り合える仲間
これらを全部、現代の“祈り”の形として捉えてみるとおもしろい。
★ モテる男は「供犠」ではなく「共鳴」する男
モテる男っていうのは、決して「犠牲的」でもなければ「完璧」でもない。
まっつんスタイルはそう思う。
むしろ不器用で、でも誠実に、相手と痛みを“共鳴”させられる男なんちゃうかな?
相手を救おうとしすぎない。
答えを出そうとしすぎない。
ただ、「あ〜、それはしんどいやつやな」って一緒に座れる。
それくらいの男の方が、案外モテるんちゃう?(笑)
これが、供犠を超えた、“共生モテ”の境地。
ここはいつもの、まっつんスタイル流・モテエロZEN(笑)。
★ そして禅へ――「愛することは在ること」
禅的な「愛」。
まっつんスタイルの中では、「何かを得ること」でも「何かを失うこと」でもない。
「ただ“在る”こと」ということ。
このフレーズは、『まっつんスタイル』の定番(笑) 。
・好きな人の笑顔を見て自分も笑う
・手を繋いで沈黙を共有する
・その瞬間にこそ「生」が“在る”
これはもう、供犠でも犠牲でもなく、世界とひとつになる体験。
愛すること、すなわち“在ること”。
エロくて、優しくて、静かで、強い。
これからは、そんな男がモテる時代であってほしい(笑)。
★ 結び ――「供犠の時代を終わらせよう」
古代の人間は、祭壇に命を差し出した。
俺らはたぶん、そこまではせん。
でも、時間を差し出す。
気力を差し出す。
ときには、自分そのものまで差し出そうとする。
だからせめて、
「俺は今、何を、誰に捧げようとしてるんやろ?」
たまにこれくらいは、立ち止まって考えてもいいかもしれんね。
できるなら、誰か一人を祭壇に乗せるより、一緒に笑ったり、泣いたり、分け合ったり・・・。
そっちの方が、なんとなく素敵。
たぶん、その方がモテるし(笑)。
「生贄ってなんなん?」
『インディ・ジョーンズ』から始まった問いが、気づけば「どう生きる?」まで来てしまった。
『まっつんスタイル』には珍しく、三編構成。
長くなりすぎ(笑)。
・・・まぁええか。
というわけで、まっつんスタイル流「生贄ってなんなん?」
完☆


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