☆“悟り”と“快楽”は、本来ひとつのもの
「悟り」というとどんなイメージかね?
- 禁欲
- 清貧
- 苦行
- 無欲
- 修行
- 超ストイック・・・
大体こんな感じ?
でもさ、これらの意味ををそのまんま受け取るのは誤解であり、人類の壮大なる勘違いなのよ。
本来の悟りは、 「最高レベルの気持ちよさ」 に近い。
だってお釈迦さんその人がそう言ってる。
- 呼吸が深く
- 身体が軽く
- “自我”の雑音が消え
- 世界との境界が“ほどけ”
- 五感が冴え
- 「これでいい」が全身に広がる
こんなもん快感そのものやん?
で、この快感こそが悟りの入口になる唯一の道。
努力でもなく、
修行でもなく、
禁欲でもなく、
「快 = 快適 = 快処 = 快調」
この「快」が悟り(無我)へ導いてくれる。
「みんなでこいつを体験しようぜ」ってのが今回のテーマ。
じゃあこっからまっつんスタイル流に解説。
☆脳と身体の構造上、「快」だけが深層意識を変える
「努力」 → 苦 → 続かない
「快」 → 自然 → 続く
これはなんとなくの気分次第とか気のせいじゃなしに、ただの脳科学的な話。
脳は「快」に対してだけ次の3つの反応をする:
- 記憶化 = (海馬が強く反応)
- 習慣化 = (基底核が反応)
- 行動の自動化 = (前頭前野の負荷減)
つまり、「快」だけが“無意識の書き換え”を起こす唯一の刺激。
どれだけ努力しても、どれだけ修行しても、「苦」がベースやと脳は変わらんわけ。
ところが「快」は、「もっとこれ味わいたい!」って自動で反復を始める。
これが“無我への入口”。
どう?、すでに納得感が半端ないやろ?(笑)
☆快感の正体は、“境界の溶け”にある
人は「快」を感じる時、必ず自分と現実世界の境界が一瞬溶ける。
- 美しい景色
- 上質な文章
- 癒しの温泉
- 魅惑のエロス
- 心地よい音楽
- 神社仏閣の厳粛さ
- 巨大建造物の威容
- 魂を揺さぶるアート
- 大自然の香りと温もり
- 気の合う友人との会話
- ブログ記事が書けた瞬間
- 好きな人と手が触れた瞬間
- 大好きなたい焼きの一口目(笑)
この時、脳は「自分(我)」が薄まり「世界」と一体化している。
わかるかなぁ?
「夢中」とか「没頭」、あるいは「放心」とか「弛緩」って言い換えるとイメージしやすいかも。
これがまさに“無我の予兆” = 悟りの入り口。
「快」は悟りの“雫”。
悟りは「快」の“完成形”ってね。
☆「快」を追いかけると逆に苦しくなる“快の罠”
ただし、快感には一つだけ罠がある。
言われてみれば誰にもでも心当たりがあるアレ。
それは、「もっともっと」という名の罠。
「もっともっと」になった瞬間、「快」は“苦”に転じる。
これを仏教では「渇愛」(タンハー)って言ったりする。
「快」は入口。
でも依存すると出口のない地獄行き。
じゃあどうするか?
ここで登場するのが・・・
☆「快」を“静かに味わう”という智慧
「快」は追いかけるものじゃない。
「快」は、“観察して味わうもの”。
味わう → 自我が薄まる → 無我の予兆
追いかける → 自我が肥大 → 苦の発生・・・
この違いがデカい。
「快」を“味わう”とは、
- 判断を挟まない
- 意味をつけない
- 「もっと」を手放す
- 体感だけに意識を置く
- いずれ消えると知っている
こういう意識的思考を“癖づけ”していくわけやな。
これが “快と悟りの接合点”になる。
☆“エロモテZEN”的に言うと、快感は色気の源泉
ここでまっつんスタイル的“エロモテZEN”のターン(笑)。
「快」を味わえる人は、
- 自意識が薄い
- 呼吸が深い
- 落ち着いている
- 無駄な緊張がない
- 感性が開いている
- 相手をよく見ている
- いつも自然体
- 繊細な余裕がある
つまり、圧倒的にエロいしモテる(笑)。
逆に「快」を追いかける人は、
- 焦り
- 余裕のなさ
- 自意識の肥大
- 承認欲求の暴走
- ギラつき
- 不自然さ
が噴出して、色気が死ぬ・・・。
このあたり、女子は秒速で見抜く(笑)。
「快」 = 色気
「快」の味わい = 無我
「無我」 = 色気の最終形態
これがまっつんスタイル的“エロモテZENの黄金比”。
☆まっつんスタイル的「快感を悟りへ昇華する技」
さて、ここからは実践篇。
快適な日常を送るためには、どれもめちゃめちゃ大事なこと。
①五感の「快」を最優先する
五感はすべて“今”にしか存在せん。
だから五感は無我の入り口。
- 香り
- 音
- 食感
- 温度
- 圧
- 光
- 風
「今、気持ちいいか否か?」
これだけをすべての判断基準にする。
②「快」が来たら“止まる”
「快」を追わない。
「快」を掴まない。
「快」を増やそうとしない。
ただ、止まり、そして味わう・・・。
すると、自我はスッと薄まる。
③「快」と「不快」の“差分”を観察する
そして、人生が変わるポイントはここ。
- これは「不快」 → 何が?どこが?
- これは「快」 → なんで?どういう種類?
差分の観察が“調律”という感性を育てる。
小さな哲学やな。
④「快」は“ご褒美”じゃなくて“ナビ”
努力の報酬として「快」を捉えると、たちまち依存になる。
だから、「快」は“道標”だと考える。
進む方向を教えてくれるだけのもの、とね。
この発想はちょっと気持ちいいやろ?
⑤「快」の反復は“修行そのもの”
繰り返し味わう。
繰り返し観察する。
繰り返し調律する。
すると、「快 → 無我 → 快 → 無我→ 快 → 無我・・・」のループに自然に入る。
これが悟った人物がよく口にする「日常が感動になる」の姿。
☆「快」は悟りの入口であり、悟りは「快」の完成形
努力からは悟りは生まれん。
禁欲からも生まれん。
苦行からも生まれん・・・。
生まれるのは“静かに味わう快感”の先にある、「自我の溶け」=無我の予兆。
そして更にその先にあるのが、まっつんスタイルが目指し続けている
調和
安寧
透明感
エロモテZEN
そして「これでいい」の感覚。
「快」を味わうことが、悟りの入り口になる理由はまさにこれ。
どやろ?
「快」と悟りの関係、納得してもらえたやろか?
気づいたかもしらんけど、これって実は、仏道修行をしてるお坊さんの日常をただ言葉にしたってだけ。
あとは日々の実践あるのみ。
その先に悟りの「快」が待っとる☆


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