たい焼き屋巡りで見えた“暮らし” 〜都会と地方は、どうバランスしてる?〜


最近は、引越し前の余白時間を使って、ちょこちょこドライブ旅行をしてる。

軽トラで、「たい焼き屋巡り」と称して(笑)。

全国的には無名と言っていい地方都市を回るんやけど、今日はその途中途中で思ったことをつらつら書いてみる。

もちろん、「地方」なんて一括りにできるもんでもないけど、そのへんの曖昧さはご愛嬌ってことで(笑)。


回ったのは、ホントなんてことのない小規模な街。

どこにでもあるチェーン店が並び、たまにボンッとイオンがあるような、ザ・地方都市。

さらに小さな集落なんかもそう。

こういう街(あるいは町)が妙に味わい深い。

犬の散歩をする人、洗濯物を干す人、近所の人と談笑する人・・・。

ふと垣間見える、ありふれた人々の営み。

たぶんみんな、家族との夕食と晩酌が楽しみなんちゃうかなぁとか思ったり。

地元の祭りや行事を守り、消防団活動に勤しみ、野球や宝くじの結果に一喜一憂してる(笑)。


海沿いの漁村とか、山奥の農村とか、ビル一つない町とか、なんか感動するのよね。

「あぁ、こんなところにも人の暮らしがあるんやなぁ」って(笑)。

この感覚、伝わるかな?

言っとくけどこれ、別にバカにしてるとかじゃないからね。

漁村の女子高生だって、スマホくらい持ってる。

YouTubeも見るし、Amazonも使う。

それくらいはわかる。

でもなんていうか、その“占有率”というか“侵蝕度”というか、優先順位が違うんじゃないかなとか思ったりするわけ。


東京や大阪の感覚やと、「なにが楽しいん?」ってなるかもしらん。

でもそう感じるのは、きっと社会の一面しか見てないからなんよね。

「インスタもバズも、スタバも、都会の流行も、人生の中心に置かない暮らしが、日本にはいくらでもある」

この事実は、肌で知っておいた方がいいと思う。

“人生の基礎に触れる感覚”って言うんかな?

ホント、ちょっと感動するから。


あと地方の暮らしを眺めてると、なんとなく「迷いが少なそう」に見えることがあるかな。

まぁここからの記述は、半分以上、車窓の眺めから勝手に膨らませた、まっつんスタイルの妄想(笑)。

きっと、生まれてからその町を出たことがない人も結構いたりするはず。

農業、漁業、工場、地元企業なんかで働いてる人が多そう。

あとはJA職員さんとか、公務員さんとか(笑)。

100人から1,000人規模のコミュニティできちんと役割を持ってる。

歴史や伝統を守ってる。

よそ者には閉じてるところもあるけど、そのぶん身内のつながりは濃い。

ほぼ同郷同士で家庭を築き、我が子を自分の母校に入れる。

年に数回旅行に行き、季節の節目にはちょっとだけ贅沢をし、時々新しいことを始めたりなんかもする。

余生は、畑仕事や奉仕活動、勉強や芸術、あるいはなにもせずフラフラ遊ぶ(笑)。

最後は家族に見守られてこの世を去る・・・。

で、別にそのことに、疑いもためらいもない。

そんなイメージ。


なんかね、「地方の人って幸せそう」って思うのよ(笑)。

これ、くどいけど、ホントにバカにしてるんじゃないからね。

もちろん、こんなステレオタイプなわけないのはわかってる。

でも、大金も、都会的娯楽も、人生の選択肢も、たぶん少ない。

いいねも、再生数も、CVRもいらん(笑)。

でも、貧しくて哀れかっていったら、ぜんぜんそんなことない。

いかにも時代遅れなんやろけど、いかにも人間らしい。

いい意味で、「人生こんなもんでえんちゃうかな」って気にさせられる。

試しに地方の人たちに、「毎日楽しいですか?」とか「幸せな人生でしたか?」って聞いたら?

「ん〜、まぁこんなもんちゃう?(笑)」とかって言いそう。

過不足のない人生。

平和で、穏やかで、ある意味“ラク”な人生。

これ、ちょっと、ホントにうらやましいときがある。

まぁさっきも言った、妄想でしかないけどね(笑)。


ただ、地方や田舎が、「無理な人は無理」っていう事実も当然ある(笑)。

地方や田舎で見られやすい、排他性、先例墨守体質、役割の固定化。

あとは、娯楽や進路の乏しさ、プライバシーの無さ、同調圧力・・・。

このへん、まだ普通にあるから。

まっつんスタイル、今まさにそういう環境で暮らしてるし(笑)。

だから、地方や田舎を見て、「遅れてる」とか、「かわいそう」とか、「ああはなりたくない」には行かん。

かといって、「最高!」とか、「これが本当の幸せ!」とか、「だから都会は云々!」にも行かん。

「あ〜、こういう世界も“普通に”あるんやな〜」って、ただそれだけ。


一方都会は、“欲望過多”で、喜びや楽しみが大きい分、疲労や虚無も大きいのかな。

役割としては、社会をより良くしようとする「推進装置」であり、文化文明の可能性を試す「実験場」やとも思う。

都会って、新しい価値観、新しい可能性、新しい生き方、新しい欲望、新しい表現、全部、まず試される場所。

成功も失敗も、幸福も病理も、最初にギュッと濃縮される場所やんね。

だから都会は、「人類のフロントライン」であり、同時に「精神の摩耗地帯」でもある。

そんなふうに思うのよね。


あと都会は、「駆け込み寺兼修行道場」っていう側面もあるかなと。

ここで言うまっつんスタイルの、「駆け込み寺兼修行道場」って表現。

これは、「地方に生まれたけど、地方の空気がどうしても合わんかった人のための都会」って意味。

地方に生まれた。

でも、地方の空気(同調・固定・閉鎖)がどうしても合わんかった。

居場所も、逃げ場もなくて息が詰まる・・・。

そういう人にとっての都会は、「駆け込み寺」。

都会って、「誰も自分を知らない」、「役割がリセットされる」、「家系・地縁・先例から自由」。

その代わり、「可能性」、「自己表現」、「時代の先端との関わり」、これらすべてが自己責任。

そんな場所でもある。

自由は与えられるけど、居場所は自分で作らんとダメ。

救われてる面もあるし、めちゃくちゃ厳しい面もあるって感じ。

そういった意味で都会は、「修行道場」でもあると思うよね。


地方と都会って、別に「優劣」や「善悪」じゃなくて、「機能分化」なんかな。

そう考えると、うまくバランスしてるとも言えそう。

「都会」:変化・前進・拡張・実験・破壊

「地方」:守護・保存・継承・循環・回復

どっちか一方だけやと、なんとなく社会は息苦しくなりそう。

都会は物事を前に進ませ、地方は壊れきるのを防ぐ。

この二つの役割があるから、人間社会はなんとなくバランスを保てるんかもしれんね。


で、“今の”まっつんスタイルの感性は、たぶん都会側。

都会じゃないと、まっつんスタイルの“中道スタイル”は成立しない(笑)。

もっと言うと、たぶん今のまっつんスタイルには、あの“地方的な安心”は、手に入らんタイプの幸福やと思う。

まっつんスタイルが、今回の旅で垣間見た“地方的な幸福”は、「無意識の中道」に見えるのよね。

一方まっつんスタイルがやろうとしてるのは、「意識的な中道」。

矛盾と欲望、孤独と自由を抱えた上でのバランス。

これは、“刺激・情報・価値の洪水”の中にいるからこそ鍛えられる感覚なんかもしれん。

今回、まっつんスタイルが惹かれた“地方的な中道”は、良くも悪くも「環境に支えられた中道」。

一方、俺が欲しいのは「自分で獲得する中道」。

だから舞台はどうしても都市になるかなと。

これはいい意味でね。


と、ここまで都会と地方についてあれこれ考えてみた。

今回のたい焼き屋巡りで一番感じたのは、たぶん「どっちがいい」とかじゃないんよね。

都会にいると、成功・成長、キャリア、収入。

選択肢、自己実現、トレンド・・・。

こういうものが、いつの間にか「人生の標準物差し」みたいに見えてくる。

でも、たい焼きを求めて知らん町を走ってるとどうか?(笑)

その物差しをほとんど使わずに成立しているように見える暮らしが、普通に視界に入ってくるんよね。

親子で犬の散歩をする人がいる。

洗濯物が揺れてる。

畑仕事をしてる人がいる。

夕方になれば、家に灯りがつく。

「あれ? 人生って、もっと適当でも成立するんじゃね?」みたいな(笑)。

これが、最初に書いた、“人生の基礎”に触れる感覚なんかもしれん。

別に、「地方人は幸せ、都会人は不幸」って話じゃない。

たぶん、自分が無意識に持っていた“人生の標準規格”が、知らない町を走ることで、ちょっと緩んだんやと思う。


日本全国を見渡せば、そこには無数の生き方がある。

この事実を、知識として知ってる人は多い。

でも、肌で知ってる人は意外と少ないかも。

実際に見て、匂いを感じて、時間の流れを体感して、「あ、こういう人生も、別におかしくないな」って思える感覚。

これって、どこでどんな生き方をしていても、心の支えの一つになると、まっつんスタイル思うね。

都会礼賛でもない。

地方賛美でもない。

ただ、「あぁ、こういう世界も“普通に”あるんやなぁ」って思えるだけで、人生観はずいぶん軽くなる。

迷いや孤独を、ちょっとだけ救ってくれることがある。

たい焼きを食べながらそんなことを思った、ドライブ旅行のお話(笑)☆


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