☆「親鸞」と「一向一揆」が、どうしても繋がらない違和感
今回は、「親鸞の思想」と「一向一揆」の話。
またどえらいテーマ引っ張ってきたなって感じやけど、まぁおもろいから最後まで付き合って。
まず「一向一揆」。
これは中世、浄土真宗(一向宗)の信徒が団結して、当時の戦国大名に対抗した武装蜂起の総称。
有名なのは、「加賀一向一揆」や「石山合戦」、あと「三河一向一揆」あたり。
教科書にも出てくるやつやね。
で、この歴史なんやけど、親鸞さんのことを勉強しだすと、こう感じる。
「親鸞さんの教えと一向一揆、どう考えても温度が合わん・・・」
「煩悩具足」に「無碍の一道」。
そして「他力本願」と「悪人正機」。
努力じゃ救われないと悟る
阿弥陀様にすべて委ねる
それは、善人も悪人も同じ
「こんな“優しい思想”が、なんで大名を脅かす勢力にまで膨れ上がったんや?」
流れが繋がらない、この違和感・・・。
でこれ、結論から言うと、
「他力本願」って、“おとなしい思想”でも、“革命思想”でもない
でも条件が揃うと、最強クラスの“反権力思想”に化ける
ちょっとおもろいやろ?
今回はこの歴史を順にほどいてから、現代を生きる俺らの心構えにまで落としてみる。
☆親鸞は、一揆を想定していない
まず、ここはハッキリさせとこう。
親鸞本人は、
・武装闘争、煽ってない
・政治運動、推奨してない
・むしろ、「世俗秩序との衝突は避けるべし」という姿勢
つまり一向一揆は、親鸞さんの思想に直結してない。
一揆 ≠ 親鸞の思想
これ、大事な前提ね。
じゃあ何が起きたのか?
答えはシンプル。
思想が“集団化した時の物理”
これが実態。
☆なぜ燃えたのか?|「救済の平等」は中世では“劇薬”
「浄土真宗」の核心はこれ。
武士も百姓も、善人も悪人も皆、同じ条件で救われる
救済は、誰の前にも平等
これ、思想としては、めっちゃやさしい。
でも中世の社会にとって、この思想は劇薬、あるいは爆弾やった。
なぜか?
それは、中世は「身分秩序」が前提やから。
武士は武士、百姓は百姓。
救いすら、どこか序列がある。
それが普通。
そこに、浄土真宗の教えが入るとどうなる?
「阿弥陀の前では、俺もお前も、農民も大名も同じやで?」
で、これが何を壊すか?
身分制度そのものを壊すんじゃない。
精神の中の、身分の前提を壊す。
このニュアンス、わかるかな?
これ、社会秩序を揺るがす力になり得る。
☆「委ね」が、なぜ反体制に見えるのか?
「阿弥陀様にすべてを委ねる」
これ、宗教的には“脱力”というニュアンスの話。
でも、社会的にはこうも読める。
権力にすがらない
地位に価値を置かない
武力を救いの根拠にしない
するとどうなる?
世俗権力の正当性が、相対化される
ちょいムズいかな?
これ、超雑に言うとこうなる。
「あんたら偉そうにしてるけど、阿弥陀様的には、別に関係ないで?」
この感覚が、共同体に広がるとどうなるか?
価値観というか、世界観が変容する。
人の精神が自由になる。
そして、精神が自由になるとどうなる?
もはや世俗の権力では制御できないことになる・・・。
ていうかこういう流れ、現代でもなんとなく既視感があるよね?
☆じゃあ、なんで武装したのか?
ここ、めちゃ大事。
一向一揆の武装は、「土地を奪うため」とか、「大名に取って代わるため」とかじゃない。
共同体を守るため
これが基本構造。
弾圧や介入。
利害衝突や宗派対立。
こういう圧力が来た時、「信仰共同体」を守るために、武装する。
ここ、歴史の皮肉やね。
思想は非暴力でも、現実が暴力(正確には“武力”)を必要とするという・・・。
☆皮肉な逆転|やさしさが「力」になる瞬間
「委ねる」の思想は、本来、
「脱力」と「ほどけ」、「赦し」と「安堵」を生む
でも、同じ思想の個人が集団化すると、
数が力になる
結束が境界線になる
共同体が“外”を持ち始める
ここで一文。
優しさは、数と圧力を得た瞬間に“硬くなる”
最初にまっつんスタイルが感じた「温度感の合わなさ」が、ここで回収される。
されてしまう・・・。
☆ここから現代|SNSという“新しい一揆の構造”
ここまで、軽く「ゾクっ」とする一向一揆の歴史。
で、ここからは現代。
一向宗の武装化の話って、現代のSNSやネット社会もまったく同じ構造を持ってる気がするのよね。
始まりは、「現実を変えたい」とか、「居場所が欲しい」とかそんなの。
あとは、「正しさを知って安心したい」とか?
で、最初は、だいたいやさしい。
「つらかったね」
「ここに居ていいよ」
「あなたのままでいい」
でもこれ、条件が揃うと、簡単に変容してしまう。
・外から批判され、外敵が生まれる → 敵がいる結束力、被害者モードで団結
・仲間が増え、疑問が裏切りになる→ 同調圧力の強化、思考停止と視野狭窄
あとは、「正義」が評価対象になる(PV・いいね)とか。
「守る」が「攻める」にすり替わる(逸脱行為の正当化)とか・・・。
さっきまで一向一揆とまったく同じ構図。
宗教宗派
イデオロギー
SNSコミュニティー・・・
これ、歴史的にも、人間的にも、ぜんぜん珍しい話じゃないやんね?
☆思想は危険じゃない。危険なのは、集団が“温度”を持つこと
ここ、超重要。
危険なのは、思想そのものじゃなく、集団が持つ“温度”
不安や恐怖
怒りや不満
被害感や犠牲感・・・
これらが“燃料”になってしまう。
だからこそ、一向一揆も、SNSも、構造は同じ。
この感覚、現代人は心しておくべしやね。
☆現代を生きる知恵|やさしさに“入る”時の三つの姿勢
ここから、まっつんスタイル☆
① 正しさに酔わない
正しいことは、気持ちいい
だからこそ危ない
先鋭化しやすい(酔いやすい)
このことは、どんな場面においても、意識から消し去っちゃダメ。
世の中に100点も0点もない。
② 余白がある共同体を選ぶ
「100%の同意」しかない、余白が感じられないような場所は、危険。
言論の自由、行動の自由が、しっかり担保されているかどうかが大事。
恐怖心や射倖心を、過剰に煽ってきたら黄色信号。
あと、ポジショントークにもご用心。
いつでも冷静に、自分を客観視する癖を持つこと。
③ “守る”と“攻める”を混同しない
「守ってるつもりで、攻撃してないか?」
これを、時々確認する。
相手の立場を慮る。
挑発もされてないのなら、迂闊な攻撃は慎む。
集団内にいるときは、特に勘違いしやすいので注意。
☆モテエロZEN的オチ|安心感がある人は、境界線が柔らかい
さて、いつものオチ。
一向一揆の歴史と、人間的魅力。
ここも絡めてみようかな。
腹を括って責任を取る(時には命をかける)ような場面が、人生にはある。
この感覚は現代人にも必要。
政治行政とか、組織運営の場面においては特に。
そして、中世の一向宗の信徒たちは、おそらくそういう場面に出くわした。
妥協すべきでないと判断した。
時には覚悟を持つことも、人間の大きな魅力。
ただ同時に、「そんなことは稀なこと」とも言える。
基本的には、穏やかで理性的な“中道的精神”こそマスト。
正しさを持ってる
でも、無闇に振り回さない仲間を大事にする
でも、安易に敵を作らない
結局は、こういうバランス感覚のある人が、静かに信頼される。
そして、だいたいモテる(笑)。
☆優しさは大切。だからこそ距離を取る
やさしい思想、もちろん大切。
でも、
やさしい思想ほど、集団になると“硬化”する
だからこそ、
やさしさを信じながら、やさしさと距離を取る
これが、
現代を生きる強さであり、成熟であり、色気やと思う。
親鸞と、一向一揆と、SNSと、そしてまっつんスタイルでした☆


コメント