☆また変な問いを思いついてしまった(笑)
こないだ『歎異抄』を読み返してね。
その流れで、ふと思いついたのよ。
「あら? 親鸞さんの「他力本願」と、プロテスタントの「予定説」って、似てる?」
って。
いや、もちろんまったく同じやって言いたいわけじゃない。
でも、「人間の努力じゃ救われへんねん」ってところ、なんか近い匂いがするなぁって。
これたぶん、宗教学者が一生かけて研究するやつ(笑)。
でもまぁ、まっつんスタイル的には、こういうのは“遊びながら触る”のが一番おもろい。
というわけで今日は、
「他力本願 」×「予定説」って似てる?
いや違う?
+ヤバいポイント(笑)。
これを、まっつんスタイル風にちょっとだけ触ってみる。
☆超ざっくり結論|似てるけど決定的に違う
じゃあまず結論から。
ウェブライティングの基本(笑)。
この二つ、
入口は似てるけど出口が真逆
共通点は、さっきも言ったこれやね。
「人間の努力では、救済は決まらない」
でも決定的に違うのはここ。
その事実が「不安」として作用しやすいか
その事実が「安堵」として作用しやすいか
ここが、宗教としての“性格”が分岐する地点やと、まっつんスタイルは考える。
☆共通点|「自己救済幻想」の破壊
でもやっぱ、この部分はかなり似てると言っていいと思う。
どちらの教えも、基本的にこう言ってるから。
・人間は思ったほど自由じゃない
・救済の主導権を“人間側の努力”には置かない
・人間の善行や努力そのものを、救済の根拠には置かない
つまり、
「自分の力で自分を救える」という発想を壊しにきてる
ここだけ切り取ると、やっぱかなり近いかなって。
実際、親鸞とキリスト教の恩寵・予定論を比較する研究が出てくるのも、たぶんこのあたりが理由なんちゃうかな。
ただし、ここから先で、世界が大きく分岐するとも思う。
☆分岐点|ここから世界が真逆に分かれる
ここ、めっちゃおもろいとこ。
★「予定説」が生んだ心理
(ここからは、カルヴァン本人の神学そのものというより、ウェーバーが『プロ倫』で描いた“カルヴァン主義が人間心理と社会にどう作用したか”という読みを中心に見ていく)
「予定説」(特にカルヴァン系)の教えは、超ざっくり言うとこう。
「救われる人と救われない人は、予め神が決めてる」
ここまでは、なんとなく「他力」っぽい。
でもじゃあ、それを解釈した人間側で、何が起きたか?
「自分って救われてる側なん?」
「選ばれてる証拠は?」
「これって成功?」
「道徳的?」
「俺、ちゃんと生きてる?・・・」
こんな感じ。
少なくとも、ウェーバーの描いたカルヴァン派の世界では、ここから“不安”が爆誕してるように見える(笑)。
その結果どうなるか?
不安がエンジンになる
そして、
勤勉、禁欲、自制、職業への規律的な献身。
そういう生き方が、「自分は神の恩寵のうちにある」という確信を支える徴として働いたんかなと。
で、あの有名なウェーバーさんの、『プロ倫』に行き着くわけよね。
浪費は抑える、働く、利益は再投資される。
この倫理観が、資本主義と相性が抜群だったっていうあれ。
結果、「“証明し続ける人間”が量産された」とも言えそう(笑)。
★「他力本願」が解体した問い
じゃあ「他力本願」はどうか?
親鸞はこう言う。
というか、まっつんスタイル語に乱暴に訳すと(笑)、
「救われとるかどうかを、自分で測って安心しようとしてる時点で、それもう自力ちゃう?」
って感じ。
「・・・え?」ってなるやつ(笑)。
「救済を求める心」に、ブレーキを踏んだ感じやね。
でもここが核心。
まっつんスタイルが、そこから人生論を抜き出すとしたら、
「測るな、比べな、証拠探しすな」
みたいな感じかな。
つまり、
不安を生む問いそのものを壊す
まっつんスタイルが思う、これが「他力」の哲学。
で、その結果、残るのは?
そう、
「安堵」
まっつんスタイルの大好物(笑)。
この一連の流れが、まっつんスタイルには、ものごっつしっくりくる。
☆一行でいちばん大事なところだけ
「予定説」:選ばれているか不安になる教え
「他力本願」:選ばれているかを考える必要がなくなる教え
もう少し正確に言うと、
「予定説そのもの」:選びは人間の努力では変えられない
「ウェーバーが描いた予定説の社会心理」:だからこそ、「自分は選ばれているのか?」という不安が、勤勉や禁欲へ向かった
かな。
いずれにしてもこれ、似てるようで、天と地ほど違う気がせんかね?
☆社会に与えた影響
これまた超ざっくりやけど、軽くまとめてみる。
・「予定説」
→ 勤勉
→ 禁欲
→ 自己管理
→ 資本主義と相性抜群
こうした生活倫理が、近代資本主義の精神と強く結びついた、とウェーバーは考えた。
“生き方のフォーマット”を提示して、世界の文化文明の発展に寄与?
・「他力本願」
→ 自分の善や能力を救いの根拠にできない人間
→ 「もう自分を証明し続けなくていい」という“安堵”を、多くの人がそこに見出した
もちろん単純化しすぎるのは危険かつ誤り。
でも方向性としては、かなり象徴的かなって、自分では思ってる。
☆ここで一回メタ視点的クッション|「これ宗教学者テーマやん(笑)」
冒頭でちょっと触れた、まっつんスタイル的に大事な話もしとく。
こういうの、本来は学者がやる領域なんよね。
学者の研究って、
・教義や概念の整理
・歴史的影響力の分析
・文献や原典の比較精査・・・
これを延々やる。
当然、これはこれで超大事。
しかも今回のテーマは、誤解や危険もはらみやすくて、社会への影響力も大きい大テーマ。
こんなのは、一人の宗教学者が一生を費やすレベル。
でも今、まっつんスタイルがこの記事で書いてることは、なんていうか“別のジャンル”なのよね。
「この思想って、現実の人生にどう効く?」
これを軽快に探る、触る。
まっつんスタイルにとっての宗教は、「研究対象」というより、「これ、人生にどう効く?」まで触ってみたいもの。
「生き方の知恵のひとつ」やと思うから。
「泣いた」
「安心した」
「なんかラクになった」
こういう体感に触るのが、“まっつんスタイルっていうジャンル”。
だから今回の記事、マジもんの学者さん、あるいは信徒さんからしてみたら、「は?」案件かもしれん。
でも、「心を軽くするために触る」。
しかも「“遊びながら触る”くらいで、ちょうどいい関わり方もある」って思うのよね。
「ここ似てる?」
「いや、違う?」
「うん、でもどっちにしてもおもろい(笑)」
これがまっつんスタイル。
☆まっつんスタイル的・核心抽出
閑話休題。
で、たぶんここが今回の核心。
人間の、人生の分岐点の話。
人は、「努力じゃ救われん」と言われた時、
① さらに走る方向へ向かうこともある
② 委ねて、ほどける方向へ向かうこともある
で、どちらも、人間の選択肢として存在する。
俺らは宗教そのものを“使い分ける”必要はない
でも、そこに現れた二つの人間像から、自分が今どちらに偏っているかを見ることはできる
ある意味、宗教って、人間の「どこに力を入れて、どこで力を抜くか」をデザインする装置?
核心というか、そんなふうに考えてみるのもおもしろいんちゃうかなと。
☆「問い」は、正解を出すためにあるんじゃない
今回は、親鸞とカルヴァンを並べてみた。
ウェーバー的カルヴァン主義:救済を自力で得られない → だからこそ、世界の中で規律的に生きる
親鸞の「他力」:救済を自力で得られない → なら、自力で自分を完成させる幻想から降りる
これくどいけど、「まっつんスタイルはこんなふうに考えた」っていうネタ。
「どっちが正しいか」とか、そんなことじゃないからね。
そんなことしても、あんま意味ないと思うし(笑)。
大事なんは、
同じ現実を見ても、不安や緊張をエンジンにすることもできるし、安堵に着地することもできる
ってこと。
世の中には、無数のものの考え方があるからね。
宗教って、正解探しの説明書というより、
人間の在り方の羅針盤であり、人生の分岐装置
そういう存在なんちゃうやろか。
あえて、『まっつんスタイル』の言葉にするなら、
世界の大きな流れに身を任せる
「自分の表現を出せているか?」という不安を原動力に“問いを立てる”
自分なりに核心を射抜き、人生に効く形に変換する
そして、文字に起こし、置いていく
うん、我ながらなかなか無理くり(笑)。
でもこう言えたことに満足。
正解はいらん。
今日の自分に効いたなら、それがもう答えやから☆


コメント