☆学ぶほどに立ち現れる“執着”
仏教の本を読んだり聞いたり、あるいは実際にお寺を訪れたりするうちに、ふと気づいたことがある。
「もっと正確に理解したい、しなきゃ」
「もっと正しく実践したい、しなきゃ・・・」
なんか最近そんなふうに考えてる自分がいる?
――あれ?、あれれ?
これ、「もっともっと」やん。
俺、「もっともっと」になってへん?・・・
これな、冷静に見ると、笑っちまうくらいに“ザ・執着” (笑)。
☆悟りたいと思うほど、悟りから遠ざかるという皮肉
仏教を学んでいる人間が、一度は必ずハマる罠がある。
それが、
「正しく理解しよう病」
「正しく実践しなきゃ症候群」
さっきの俺の「〇〇しなきゃ」ってやつ。
これ、ホンマに「なんの冗談?」やけど、
悟りたいと思うようになる
↓
“正しく”理解しようとする
↓
なんか必死になる
↓
力む
↓
いちばん大事なものから遠ざかる・・・
この構造、意外と「〇〇道」とかでも一緒やったりするよね。
☆勝ちたいと思うほど勝てない現象
例えば、
「勝ちたいと思うほど勝ちから遠ざかる武道家」
これって“まさに”やと思わん?
実は将棋もそう。
ゴルフもそう。
クレー射撃もそう。
「当てよう」、「勝とう」、「ミスるな」って思った瞬間、身体も感覚も一気に硬直する。
仏教も全く同じ。
「正しくあらねば」
「間違えたらあかん」
「ちゃんと理解せんと」
こんなふうに考え始めた瞬間、もう目的からズレ始めてる。
これ、理解が深まり始めたころに起こりやすい。
頭を使えば使うほど、不安や迷いが生じ始める。
☆「正しさ」に飲まれたら、本末転倒
仏教の教えってもともとは、
苦しみを軽くするための“道具”
のはずやん?
それがいつの間にか、
・どの宗派が正しいのか?
・この解釈は合っているのか?
・自分の理解は浅いのではないか?・・・
――こんなことばっかり気になり始める。
完全なる本末転倒。
「いやそういうことじゃねーだろ?」と(笑)。
歴史の考察や経典解釈が好きなら、それはそれで素晴らしい。
それは知的好奇心として、どんどんやったらええと思う。
でもな。
「正確さ」や「正しさ」を突き詰める仕事は、高僧や学者の領域。
☆我々が仏教を学ぶ理由は、たった一つ
じゃあ、俺ら一般人が仏教を学ぶ理由はなんやろか?
これ、突き詰めたら、ホンマに一つしかない。
それは、
「無我の気持ちよさを、できるだけ長く味わうため」
――これや。
いやマジで(笑)。
それ以上でも、それ以下でもない。
そしてしかも、この「気持ちいい」は、求めなくなった瞬間に立ちあらわれる感覚。
このことを体感するのもまた、仏教を学ぶ理由。
☆それぞれが感じる「無我の体感」こそ宝
俺らにとって大事なんは、教義の正確さじゃない。
そこも大事やけどそこじゃない。
・フッと全身の力が抜けたフィーリング
・未来と過去が消え、今に着地してる感覚
・「あ、(無我って)これかも?」と感じた刹那
・どこまでも優しく、そして“ラク”になれた瞬間
・理由もなく、静かに「これでいい」を捕えた直感
この “体感” こそが宝物。
仏教の教えは、その体感に至るための様々なルート(手法) を示してくれてるだけ。
☆仏教は「カスタマイズしてええ」
仏教には、「禅」もあれば、「念仏」もあれば、「密教」もある。
つまり最初から、「一つの正解」なんて想定してないんよね。
お釈迦さまが、弟子それぞれ個性に合わせて教えを説き、その弟子たちそれぞれが体系立てて受け継いできたもの。
それが仏教。
だから、
自分に合う手法を取り入れて、
自分なりに実践して、
自分なりに“ラク”になる。
それでええのよね。
それがその人にとっての真の「正しさ」。
☆実は、人生のあらゆる分野で同じことが起きる
これ、仏教に限らん。
仕事のキャリアアップも、
安定した収入も、
成熟した恋愛も、
気持ちのいい家族関係も、
心身の健康も。
「間違いのなさ」や「絶対確実」を求め始めた瞬間、だいたい歪み始める。
これホント不思議。
でも世の中の“摂理”。
☆だから、忘れないようにしたいこと
・目的を見失わない
・絶対確実を求めない
・思考の柔軟さを保つ
・視野狭窄に陥らない
・五感を大切にする
仏教が、人生を縛るルールになっちゃダメ。
仏教は本来、人生を軽くするための知恵やからね。
☆悟りは“正しさ”の先にあるのもじゃない
悟りは、いわゆる“正しさ”の延長線上にはない。
むしろ、
“正しさ”を手放したときに、静かに立ち上がってくる感覚
これこそが、俺らがこれからも大事にしたいもの、ってね☆


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