“エロモテZEN”のまっつんスタイルも、承認欲求フツーにある
「エロモテZEN」を標榜し、無執着とか、中道愛とか、そんな言葉を使って語る。
すると、「この人、煩悩とか承認欲求とか超越してそう」って思われるかもしらんけど――
全っ然そんなことない。
そんなわけないやん(笑)。
承認欲求なんか普通にあるよ。
むしろ、結構ある、相当ある(笑)。
「いいこと言うなぁ」って言われたいし、ブログの実績は内心ドヤりたいし。
会話の中でちょっと賢いこと言って「さすが!」って思われたい自分もおる。
バレへん程度に、知識や経験でマウント取りたい瞬間もある(笑)。
どーしょーもないやろ?
まぁでもさ、それが人間やん?
承認欲求の正体ってなんや?
承認欲求ってのは、「敬われたい」、「褒められたい」、「羨ましがられたい」っていう、まぁ「認められたい」の総称ってことでいい?
「コミュニティーの上位にいたい」、「弾き出されたくない」、「愛されたい」っていう人間の生存本能やな。
一方で、「手放すべきもの」、「ダサいもの」、「未熟な証拠」みたいに扱われがちやけど、さぁホンマにそうやろか?
人と関わって生きてる以上、誰だってさっき言った「認められたい」、「価値を感じてほしい」って思うもの。
これって、“呼吸”みたいなもんやん?
だから、承認欲求がある=未熟、じゃない。
承認欲求がある=人間。
問題は、承認欲求が“あること”やなくて、それに“振り回されること”やと思うけど、どやろ?
人と話すときに、特に出る(笑)
まっつんスタイルの場合の承認欲求は、ブログを書いてる時より、人と直接話してるときのほうがハッキリ出る。
例えばちょっと知ってる話題になると、
「え?、知らんの?」
「それ、補足したろか?」
「そこ、もう一段深い話あんねんけど?」
って、内心がザワつく。
ザ・承認欲求!(笑)
で、話したあとに
「あぁ、またやってもうた・・・」
って一人反省会(笑)。
こんなもん誰にとっても“あるある”やろ?
無いとは言わさん!
特に男子(笑)。
意識して自分の内心を観察してたらホンマよう分かる。
もう次から次へと承認欲求という名の泡がブクブクブクブク・・・。
でも、これを「俺、あかん・・・」ってやり出すと、一気に自己嫌悪コース。
なんで自己嫌悪に陥る?
これホンマなんでなんやろな?
「現代的な不平等不公正感に対する罪悪感や羞恥心」
「突出することで逆に集団から弾かれる危機感や恐怖心」・・・。
あえて言葉にするならこのあたり?
でもさっきも言ったけど、こんなもんしゃーない。
承認欲求そのものが悪いんちゃう。
じゃあなんの自己嫌悪か?
正確には、“承認欲求を持つ自分を否定することによる苦しさ”ってことじゃない?
仏教っぽく言うなら、
煩悩があるから苦しいんやない
煩悩を消そうとするから苦しい
承認欲求を
「持ったらあかんもの」
「悟ってない未熟な証拠」
みたいに扱うから、内心でギシギシとよう分からん戦争が起きる。
ほんで結局、
承認欲を隠す → 歪んで出る → 余計に嫌になる
っていう不の無限ループにクルクルと落ちていく・・・。
じゃあ逆に、承認欲求に飲まれたらどうなる?
このことも正直に書いてみる。
承認欲求に無自覚やと、
- マウント
- 正しさの押し付け
- 評価されへんと不機嫌
- 最悪仲間外れリスク
- 他人の反応に一喜一憂して疲弊
ってこうなるわな。
まっつんスタイル的“エロモテZEN”から一番遠い状態(笑)。
まぁでも、
「飲まれたらどうなる?」
「あっ、今飲まれそう?」
って知ってる、気づけてる時点で、もう半分抜けとるとも言えるけどね。
ニヤリと笑って受け流す、という選択
じゃあどうするか?
まっつんスタイル的「承認欲求の処し方」。
戦わん。
抑え込まん。
消そうとせん。
ただ、
「うぇ〜、またドヤりたがっとる俺がおるな〜(笑)」
と、ニヤリと観察する。
ただこれだけ。
これが中道愛的やし、禅的やし、エロモテZEN的な態度やと思ってる。
“エロモテZEN”とは、承認欲求からの解放
まっつんスタイルの“エロモテZEN”って、別に「欲望ゼロの仙人」になることちゃうのよ。
“欲を持ったまま、軽やかでいること”
承認欲求を消そうとするなんてのは愚かなこと。
大事なのは、承認欲求が出てきても、そいつに人生のハンドルを渡さんこと。
欲があっても、自由。
煩悩があっても、静か。
それが、今のまっつんスタイルの目指してる在り方☆


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