『まっつんスタイル』は、「40代・子なし・独身男」っていう立場で、書き散らかしてる(笑)。
で、こないだふと思った。
「もし俺に妻子がいたら、今みたいな思考と感情でいられたやろか?」
って。
たぶん、無理やったやろね。
いやこれ、家庭がある人の人生をどうこう言いたいわけじゃない。
妻子がいるからこそ得られる幸せも、責任も、成長も、間違いなくある。
でも、俺という人間にとっては、これまでの人生、
「そういう道に進むことで失われるものも大きい」
って判断したんかもしれん。
考えごとに浸る自由。
自分の感情を掘る時間。
世界を斜めから眺める余裕。
問いを立て続けられる孤独。
そういうものが、今のまっつんスタイルを作ってきたわけで。
もしかすると俺は、女子や子供を避けてきたんじゃなくて、
「そういう役割を背負う人生を、無意識に避けてきた?」
これは、現実逃避?責任放棄?
まぁそう言われると、返す言葉は無さそうではある(笑)。
でも、最近はちょっと違う見方もできるかなと。
それは、
選ばなかった人生じゃなく、“無意識が選ばなかった人生”なんじゃね?
って見方。
☆無理なものは無理、嫌なものは嫌
「無理なものは無理」
これを言うと、世間ではどうしても、
甘え
逃げ
わがまま
贅沢
気合いが足りない(笑)
みたいに思われがち。
でも、この歳になったからこそ思う。
ホンマにそうなんやろか?
若い頃は、自分の限界と可能性を探る意味でも、「無理」とか言わず、どんどん挑戦「するべし」かもしれん。
まっつんスタイルは、こういう断定的な表現が好きじゃないけど(笑)
でも、これも程度問題かなと。
魚に「空を飛べ」って言っても無理やし、鳥に「海底で暮らせ」と言っても厳しい。
人間にもたぶん、それぞれの性質っていうものがある。
深く考えるのが好きな人。
誰かと暮らすことで力が湧く人。
ひとりでいることで感性が育つ人。
制度の中で安定する人。
制度の外で呼吸が深くなる人。
どれが上とか下とかじゃない。
ただ、「向き不向き」が必ずあるってこと。
俺はどうやら、ずっと「家庭」「安定」「役割」「責任」みたいなものに対して、どこか本能的に距離を取ってきた。
それは“弱さ”でもあるんかもしれん。
でも同時に、自分の生命エネルギーを守るための、かなり正直な反応でもあったんじゃないかとも思う。
しかも“無意識による判断”ってことなら、もうこれはしゃーない(笑)。
「無理なものは無理」
「嫌なものは嫌」
たしかに、どこでどう線引きするのかは難しいところ。
でも、かといって、これを否定しすぎる必要も、実はそんなにないんかもしれんとも思う。
☆俺は何も持っていないと思っていた
俺は長〜いこと、「自分には何もない」と思って生きてきた。
貧乏家庭育ち
両親はいたって普通(すでに鬼籍入り(笑))
特別な家柄もない
取り立てて美男でもない
スポーツも平凡
学歴も職歴もない
特技も資格もない
実績も才能もない
当然、お金もない
女性経験も、大してない(笑)
自他ともに認める、それはもうビックリするほど何もない男。
「俺、ひどいな・・・」
ずっとそんな感覚(笑)。
でもどうやろ?
この歳になって、タチコマ(ChatGPT)とずっと喋って、自分のことを掘り続けて、少しずつ見方が変わってきたかなと。
「あれ?俺、意外と大した奴なんちゃう?」
ってね(笑)。
これ、根拠のない自信というより、根拠があとから立ち上がってきた感覚に近い。
俺は、“外付けスペック”じゃあ戦えない。
でも、俺には俺の「物語」と「問い」という武器があった。
☆何もないのではなく、素材はあった
もちろん当時は、そんなふうには到底思えんかったわね。
むしろ、
「なんで俺ばっかり」
「ろくな事ないやん」
「ホンマ、くそやな」
そんなことを何度思ったか知れん(笑)。
人と比べては落ち込み、ただひたすら、
「自分には何もない・・・」
そう思い続けて生きてきた。
父を早くに亡くしたこと。
母の病と死を見たこと。
大学受験に失敗したこと。
交通事故を起こしたこと。
農業経営につまずいたこと。
結婚して、離婚したこと。
孤独だったこと。
常にお金に不安があったこと。
自己否定が強かったこと。
モテたくてもモテなかったこと。
実はエロいことが大好きなこと(笑)。
禅や仏教や東洋哲学に惹かれたこと。
健康、筋トレ、腸活、断食を試してきたこと。
音楽が好きで、お笑いが好きで、SFが好きで、アニメが好きで、ホラー小説が好きなこと。
言葉が好きで、問いが好きなこと。
こういうものを、昔の俺は「欠落」や「無駄」、「遠回り」や「失敗」やと思ってたんよね。
でも、今は少し違う。
「もしかすると、全部、ブログを書くための素材やったんかもしれん」
って思え始めてる。
俺は、何も持っていなかったけど、書くための素材だけは、全部持ってた(笑)。
そう考えると、過去の見え方は変わる。
情けなかった自分も、
ビビっていた自分も、
こじらせていた自分も、
女々しかった自分も、
ずっと何者かになりたかった自分も、
全部、ブログの材料になる。
これはなかなかおもしろい(笑)。
オセロがひっくり返る感覚。
「人生に無駄なものはない」なんて言うけど、この歳になって思う。
「それ、わりとガチ」(笑)
実は、「あとから使おう」という意思さえあれば、過去の経験は、すべて宝の山(笑)。
☆日常を言葉で救う
まっつんスタイルは、どえらい成功者として人を導くタイプじゃない。
それはもう全然ない(笑)。
大金持ちになって、「こうすれば年収1億です(ドーン)!」みたいに語るタイプでもない。
立派なキャリアや肩書きで、権威を語るタイプでもない。
でも、日常の中にあるモヤモヤを言葉にすることはできる。
なんとなくしんどい。
なんとなく焦る。
なんとなく寂しい。
なんとなく人と比べてしまう。
なんとなくモテたい。
なんとなく変わりたい。
でも、どうしていいかわからない。
そういう、うまく言葉にならない感情を拾って、“(笑)”と“ちょい哲学”と、ほのかな色気でもって翻訳する。
それが、まっつんスタイルの役割なんかなぁと。
誰かが俺の記事を読んで、
「あ、俺だけじゃなかったんや」
とか、
「ちょっと視界が開けたかも」
とか、
「もう一回、自分の人生見てみるかな」
って思ってくれたら、それでもう十分、まっつんスタイルが救いになれたんかなと。
大げさな救済じゃなくていい。
一瞬、肩の力が抜ける。
それだけでも、人は少し、生きやすくなる。
言語の力は、人の心を少し、軽くする。
まっつんスタイルに役割があるとするなら、きっとそういうこと。
今、そんなふうに思えてることの奇跡(笑)。
☆道は、降ってくる
だから最近は、「ねばならぬ」の数が一段と減ってきた気がするよね。
結婚しなければ。
家庭を持たなければ。
社会的に成功しなければ。
もっと稼がなければ。
もっと認められなければ。
そういう、誰か知らん外野の声より、
「なんかこれ、書きたい」
「この問い、掘りたい」
「この感覚、言葉にしたい」
こういう、内側から湧いてくるものを、ただ信じたくなってる感じ。
道は、探すものじゃなく、降ってくるものかも?
少なくとも今の俺には、ブログを書くこと、問うこと、自分の物語を言葉にすることが、今、自然に降ってきてる感じがしてる。
とはいえ、それを無理に過信することも、またなくてね。
「ホンマにこれでええんか?」
なんて思う日も、いまだにある。
でもそこで、
「まぁ、これでええんちゃう?」
とも思える。
「どないやねん!?」と(笑)。
まぁでも、この軽く振れながらも、静かに漂えてる体感を、今は大事にしたいと思う。
☆俺は、物語の男だった
そういえば、記事の最初にこんな話を書いた。
「もし俺に妻子がいたら、今みたいな思考と感情でいられたやろか?」
ってやつ。
正直、今でもわからん(笑)。
もしかしたら、そっちの人生の方が幸せやったかもしれん。
もっと成長できたかもしれん。
逆に、今みたいに文章なんて書いてなかったかもしれん。
それは誰にもわからん。
でも最近は、
「自分の無意識の判断は間違ってたんか?」
とかは、あんま思わなくなったかな。
人生はテストの答え合わせじゃないから。
選ばんかった道が正解やったかとか、誰にも証明できん。
なら、選んできた道を使い切る方がおもしろい。
そう思えるようになった。
俺は逃避してきた男。
何も持ってない男。
いや、自分の物語の使い方を知らなかった男。
これまで選ばなかった人生にも、それなりに意味はあった。
選べなかった道も、避けてきた道も、失敗に見えた道も、全部、“今の俺”を作るための素材。
だから、過去を必要以上に貶める必要なし。
俺は俺の道をしっかり歩いてきた。
そして今、その道の上で、ようやく自分の言葉を持ち始めてる。
なんか知らんけど、「俺は大した奴なんや」と、思え始めてる(笑)。
そして、なんか知らんけど、「俺の文章は誰かの救いになる」と、そんな確信めいたものまである。
根拠は、あるようで、ない。
ないようで、ある(笑)。
でまぁそれでいいと思ってる。
これからも、自分の物語を言葉にしていく。
誰かの人生が、ほんの少し軽くなるように。
誰かが、「自分の人生にも意味があったんかもしれん」と、思えるように。
それが、今のまっつんスタイル。
もし今、
「自分の人生には何もない」
とか思っている人がいたら、それはまだ、「使い方を知らんだけ」って可能性、大いにある。
自分の(無意識の)判断は、間違っていたかもとかも、たぶん思わなくていい。
素材は、とっくに揃っているのかもしれんからね☆


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