「反復」は、悟りにも依存にもなる 〜禅僧とダメ男を分けるもの〜


「反復」って、よく考えたら不思議よね。

永平寺の修行僧が、毎朝掃除をする。

まっつんスタイルが、筋トレや腸活や断食を続ける。

ダメ男が、寝坊して、イヤイヤ働いて、ジャンク飯食って、SNSやAVで時間を溶かして、また惰眠を貪る(笑)。

これらは全て、“繰り返し”ではある。

でもこれ、違うやん?(笑)

じゃあ、何が違うんやろ?


ポイントはたぶん、

目的意識と体感

ここちゃうかな。


☆反復そのものに善悪はない

実際、反復はただの装置。

それ自体は善でも悪でもない。

問題は、その反復が“どこへ向かっているか”、やね。

今ここに戻るための反復なのか

今ここから逃げるための反復なのか

禅僧の掃除は、世界と調和するための反復。

ダメ男の惰性は、世界との接続を切るための反復。

見た目は似ていても、内側で起きてることは真逆。

こういう理解でどやろ?


☆顕在意識が舵を取っているか

ここで大事なのが、顕在意識。

スピリチュアル界隈なんかだと、やたら「潜在意識」が持ち上げられがちやけどね。

でも実は、顕在意識の役割はめちゃくちゃ大きい。

「どう在りたいか」
「何を整えたいか」
「どんな“快”を育てたいか」

この最初の“舵取り”があるかどうかで、反復の質って全く変わる。

「顕在意識」が“船長”、「潜在意識」が“船”

みたいなイメージかな。

「顕在意識が道を描き、潜在意識が景色をつくる」でもいい。

この二つがうまく溶け合うと、無我やフローに近づくし、顕在意識が薄弱だと、ただ惰性に流される。

それは、“溶け合い”じゃなくて、“抜け落ち”。

似てるようで、全然違う。

いや、似てすらいない(笑)。


☆欲を否定する必要はない

これは、「欲のままに生きろ」っていう話でも、「欲を否定しろ」っていう話でもない。

「欲」ってエネルギーやからね。

問題は、そこに、

「自分はこうでなければ」
「もっと上に行かねば」
「人に勝たねば」

っていう執着がくっついた時。

欲は火

観察は灯籠

火だけなら、無駄に燃え広がる。

灯籠だけなら、ただ暗い。

でも、二つが合わさると、静かに世界を照らす。

こんなイメージが、まっつんスタイル的にはしっくりくる。

反復は、“意思と衝動の合わせ技”ってことやね。


☆「これでいい」という“快”

反復がもたらす「悟り」って、もしかすると、

自分の判断に対して、「これでいい」と思える快感

のことなのかもしれんよね。

その判断が、世間や社会や世界と無理なく噛み合っている感覚。

「これでいい」

この一言には、妥協とは違う、深い自己統合を感じる。

欲があってもいい。
お金があってもなくてもいい。
地位や名声も、あってもなくてもいい。

それらは全部、素材にすぎない。

大事なのは、それらを通して、自分と世界が調和しているかどうか。

ここも、「怠惰の反復」か、「意思による反復」かの、見極めポイント。


☆生活そのものを“快”にする

まっつんスタイルがやってる、腸活、筋トレ、断食、情報コントロール、内観。

これらは全部、生活を気持ちよくするための反復。

生活そのものが、静かな“快”になる

これはたぶん、現代版の修行なんやと、まっつんスタイルは思ってる。

特別な場所に行かなくてもいい。
特別な人間にならなくてもいい。

何気ない毎日の中で、少しずつ心身を整えていく。

そして、その整えようとする自分をも観察し、整える。

そういう営みが、“快”になる。

それだけで、意外と十分。


☆結び

反復は、悟りにも“快”にもなる。

依存にも逃避にもなる。

違いは、そこに“目的意識と体感”があるかどうか。

今から逃げる反復は、自分を空洞にする

今に還る反復は、自我を静かに溶かす


「無我」とは、自我が自然と消える瞬間を、ただ味わえること、味わうこと。

反復のその先に、怠惰とは別の、静かな安らぎがある。

まっつんスタイルは、常にそこを目指してる。

いや、最近はそこに、ちょこちょこ触れ始めてる気がする、かな(笑)☆


コメント

コメントする