「正しさ疲れ」の時代を生きる 〜消せない不安をどう扱うのか?〜


☆人間は、不安をなくすために生きている?

相変わらず、世間の「正しさ」の勢いがすごい。

もう常に空気を読んで、 言葉を選んで、 互いの立場を確認していないと、いつ何を突っ込まれるかわからない。

気づけば、 何かを言う前に、 何かを信じる前に、 自分が“善の側”に立ってるかどうかを確認してる。

そして、誰かを傷つけないように気を張ってる。

傷つく“かもしれない”人が一人でもいるなら、それは“悪”・・・。

もちろん、配慮そのものは大事。

でも配慮が、“恐怖ベース”になった瞬間、世界は一気に窮屈になる。


これ、言い方を変えると、「みんないつも不安」ってこと。

そして人間は、とにかく不安に弱い。

わからないもの
決めきれないもの
宙ぶらりんな状態・・・

これらに耐え続けるのは、 思った以上にエネルギーを使う。

「一刻も早くなんとかしたい」

だから人は、「正しさ」に飛びつく。

正しさは、 不安を一瞬で片づけてくれる(気がする)から。


現代社会の正しさの増殖。

きっと人間は、

不安を消したくて、価値観や選択肢を増やしすぎた

そういうことなんじゃないかね?

まっつんスタイルの仮説。

たぶん、そこそこ鋭い(笑)。


☆「正しさ疲れ」の正体をシンプルに言うと

人間って本来、

  • 世界はよくわからない
  • 未来もよくわからないもの
  • 自分が正しいのかもわからない・・・

この“わからなさ”に「耐えながら生きる生き物」やったのよね。

「わからない」って状態がデフォ。

「すべてをわかろうとするのは不可能」ってのが前提。


ところが現代は、

  • 情報が過剰
  • 価値観が無限
  • 生き方は選び放題・・・

自由や選択肢(「わかる」)が増えた分、“不安の処理コスト”が爆増した。

そんな状況。

来る日も来る日も、「正しいか否か」をジャッジし続ける日々。

するとどうなるか?


☆「不安 → 正しさ → 安心」という短絡回路

人は、どうやらこういう回路を作る。

  1. 不安(自分が間違ってるかも?・・・)
  2. 正しさを探す・しがみつく
  3. 「自分は善の側だ!」と確認
  4. 一時的に安心

昨今流行りのポリコレ棒も、コンプラも、〇〇ハラスメントも、根っこはほぼ同じ。

「自分は大丈夫な側でいたい」

これだけ。


正しさは安心をくれる(一時的に)からね。

「自分は善の側におる!」
「自分は間違っていない!」
「自分はちゃんとやっとる!」

そう思えた瞬間、 胸の奥が、少しだけ軽くなる。

さっき言った、ポリティカルコレクトネス。 コンプライアンス。 なんとかハラスメント・・・。

ここ大事やから、もう少しちゃんと言うとくと、「正しさそのもの」が悪いわけじゃない。

ただ、 これらが「心の安心装置」になった瞬間、 正しさは、“刃物”に変わるって話・・・。


☆「信者商売」や「居場所商売」が繁盛する理由

「ここなら(この人なら)、自分は大丈夫」

これも、正しさを希求する一つの形。

もはや現代人の“切実な祈り”やね。

  • 正解を教えてほしい
  • 判断を代行してほしい
  • 自分で考えなくて済むようにしたい・・・


宗教が弱まった社会で、“宗教っぽいもの”が増殖するのは世の必然なのかもしれん。

  • カリスマ〇〇
  • インフルエンサー
  • 〇〇界隈と、そのルール
  • イデオロギー
  • 暗黙の正義・・・

これ全部、“安心の代用品”。

「ここなら大丈夫」
「この人についていけば安心」

そう思える場所が、 今、とても人気(売れてる)らしい。

人は、 「安心の置き場」を探して止まない・・・。


☆なぜポリコレは攻撃的になるのか?

これも大事な点なんで触れとく。

正しさって、本来は、“自分を律するもの”であるはず。

でも不安が強いと、“他人を裁く道具”に変わる。


安心は、他人を粉砕することで得られるものじゃない。

にもかかわらず、

他人の間違いを見つけ、他人の無知を暴き、 他人の価値観を否定する

そうすれば、 相対的に自分は正しくなる

こういう勘違いに取り憑かれる。

もうほとんど、「無意識の防衛本能」と言っていい。

でもこれは、 安心じゃなくて“麻酔”

いや、“麻薬”やな。

麻薬は、痛みを消すんじゃない。

痛みの位置をわからなくする。

切れたら、 同じかそれ以上の量が欲しくなる。

そうなると?

  • 正義が過剰に“純化”される
  • グラデーションが許されない
  • そこに至るまでの文脈が消える・・・

これ、どうしても攻撃的になる構造。

そりゃ疲れる・・・。


☆数字が気になる理由も同じ

  • 実績
  • 年収
  • キャリア
  • いいね数
  • フォロワー数

これ全部、「自分はここにいていい」の証明

数字は分かりやすく、外向けの説得力は抜群。

でも、いつまでも満たされない

数字は、心を抱きしめてはくれない。

正しいはずなのに、いつまでも安心を感じられない。

だから延々と確認してしまう。

終わりが見えない。

そりゃ疲れる・・・。


☆じゃあ、この止められない流れをどうする?

それでも、不安はなくならない

正しさを集めても。 数字を積んでも。 居場所を見つけても、不安は、形を変えて戻ってくる・・・。

不安とは、人間という生き物に組み込まれた機能。

人間が人間である以上、「不安 → 正しさ → 安心 → また不安」の流れは簡単には止まらない

これは事実。

そして残念ながら、万能の最適解もない・・・。


ここで、まっつんスタイルの「問い(問うこと)」が顔を出す。

  • 思想・哲学
  • 宗教
  • 思索や内観

「どう生きるべきか?」 じゃなく、「自分とは、なんなのか?」

止められない流れに飲まれないため、自らに“問いを立てる”。

この問いに向き合わない限り、 安心は、どこにも定着しない。

まっつんスタイルはそう思う。


☆そして、親鸞の「安堵」が効いてくる

ここまで来ると、もうテクニックの話じゃないよね。

「どうやって正しくなるか?」じゃなくて、「正しさの競争からどう降りるか?」って話。


というわけで、「自分とはなんなのか?」を哲学する実例として、親鸞さんをあげておこうかと思う。

「浄土真宗」の教えやね。

『歎異抄』は、ぜひ読んでみるといいよ。


親鸞さんが語ったのは、 正しさの先にある安心じゃない。

努力の成果でもない。 善行のご褒美でもない。

理由のいらない安心。

このままで、引き受けられている

この感覚。

これを、まっつんスタイルでは「安堵」と呼ぶ。

正しさの競争から降りるための思想

きっと、自分を知る、いいきっかけになる。


☆モテエロZEN的に言うなら

正しさに疲れてるとモテない。

女子は寄ってこないし、結婚してるなら、間違いなく妻に嫌われる。

なんか生気(エロ)を感じないからね。

正しさを妄信してる人も、言うまでもなくモテない。

正しさで人を殴る人は、・・・以下略(笑)。


色気(エロ)のある人は、

  • 判断を急がない
  • 善悪を即断しない
  • 白黒つけたがらない
  • 不安を他人にぶつけない
  • 「それもあるよね〜」って言える

余裕と自信やね。

一緒にいて安心。

だから、 だいたいモテる(笑)。

まっつんスタイルの読者なら、正しさから来る安心に、安易にすがっちゃダメ。


☆正しさを、少しだけ手放す

安心が欲しいあまりに増えすぎた、いわゆる正しい価値観や選択肢。

増えすぎて、もう今にも溺れそう・・・。

ただ、「正しくあろうとするのをやめろ」って言っているわけじゃなくてね。

正しさで自分を守ろうとしすぎない
絶対確実な正しさがあると思わない
他人を攻撃する武器として使わない

ここらへんはきちんと、自らを律しないとダメだと思う。


その代わり、

問いを抱えたまま、 生きてみる
わからないまま、 人と関わってみる
“人間の性”を、飲み込んで、引き受けてみる

もっとフラットに。

そして、

正しさを自分自身に向ける・自分の中に探す

「不安は消せなくても、扱い方は選べる」と考える

こういう発想が健全だと思うよね。


正しさで安心しようとすると、世界はどんどん窮屈になる

問いを持って生きると、世界は少しだけ広くなる

安心は、正しさの先じゃなくて、手放した先に立ち上がるものかもしれない

by まっつんスタイル☆


コメント

コメントする