☆二人の並存は必然?
日本仏教史において、あまりに出来すぎた二人。
最澄と空海。
ほぼ同時代に生まれ、同じように唐に渡った。
そして、それぞれが違う“答え”を持ち帰り、日本仏教の進むべき道を指し示した。
この二人の存在は、あまりに対照的で、あまりに補完的に見える。
これは偶然というより、必然やったんちゃうかなと。
今日はそんなお話。
☆天と最、真と空
名前からして、もうなにやら象徴的。
- 最澄:天台宗 = 全体包摂/調整/中道
- 空海:真言宗 = 一点突破/覚醒/超人
これ、まっつんスタイル的に言うなら、
最澄は、「大学の学長にして編集者」
空海は、「カリスマ天才アーティスト」
同じ世界を見ているのに、立っている場所がまったく違う。
そんな感じやね。
☆最澄は「場」を作った
最澄がやったことは、派手な奇跡でも、個人の覚醒でもない。
比叡山という「場」を作った。
宗派の違いをまとめ、経典を翻訳し、基本的な歴史・教義・戒律を整理した。
そして、
- 禅も
- 念仏も
- 密教も
すべてを網羅し、学べる環境を整えた。
そこから人材が育ち、思想が熟成し、やがて分化していく。
最澄は、
仏教の礎を築き、仏教が続く構造を作った人
ってことやね。
☆空海は「答え」を持ち帰った
一方の空海は?
彼は唐で、体系化された密教を、日本で成立する形に再構築して持ち帰った。
- 即身成仏
- 言葉と身体と宇宙の一致(「身口意」の「三密」)
- 儀礼と修行による覚醒
空海の真言密教は、人間が本来持ってる欲望や存在を全肯定する。
そしてそれを、“仏のエネルギー”に転換し、悟りを目指すという実践的な教え。
これはもうある種の、
完成品
「教え」というより、センスとかスキルの世界やね。
再現性は低いけど、刺さる人には、致命的なほどぶっ刺さる。
☆なぜ二人は噛み合わなかったのか?
史実的には、二人の関係は、必ずしも良好じゃなかったらしい。
最澄は空海に学びを求め、空海は距離を取った。
ここに、なにやら感情的な確執を読み解きたくなるけど、たぶん本質は別やと思う。
二人は、
目指しているレイヤーが違った
同じ真理を見ていたが、最澄は「社会」、空海は「個」を見ていた
最澄は、「構造」を見ていた
空海は、「到達点」を見ていた
そういうことじゃなかったんかって気がする。
なかなか話が噛み合わんのも宜なるかな。
☆同時代に必要だった理由
もし最澄だけなら、日本仏教は、網羅的で優秀やけど、もっと抽象的になってたかもしれん。
もし空海だけなら、日本仏教は、神秘的で強烈やけど、もっと選民的になってたかもしれん。
二人が同時代にいたからこそ、
- 全体を包み込む器
- 一点突破する閃光
この両方が生まれて、日本の仏教に刻み込まれた。
見事にバランスが保たれたわけやね。
☆天・最と真・空は、対立ではない
後世、天台と真言は、しばしば対立軸として語られる。
同じものが並び立つと、思わず対立させたくなるのが日本人?(笑)
でも、本当はこう。
天台が「土壌」を作り、真言が「果実」を示した
育てる人と、魅せる人。
対立どころか、相互に補完し合った美しい関係。
どちらが欠けても、日本の仏教文化は育たんかった。
これは間違いない。
☆ここでちょっと視点を変える 〜天・最と政治〜
天・最と真・空。
おもしろいことに、政治と結びついたのは天・最の方。
で、これにもちゃんと理由がある。
比叡山の政治的立ち位置
現代の感覚で考えると、宗教と政治が近すぎるのは、ちょっと怖い感じがする。
カリスマによる絶対支配?
教義や信仰による洗脳?
科学を無視した狂信?
結局はお金が目的?
排他的で暴力的?
そんな負のイメージがどうしても付きまとう。
でも、昔は違った。
当時の宗教(ここでは仏教)は、精神論でも癒しでもなく、「国家の基盤そのもの」やった。
その中で特に、比叡山と天台宗は、極めて特殊な立ち位置にいたのよね。
国家は「意味」を必要とする
国家っていうのは、制度や武力だけじゃ続かない。
社会規範や倫理・道徳も同時に必要。
大切にすべき価値観とか美意識みたいな、“精神の基準”みたいなもんやね。
人々が、
- 人はなぜ生きて働くのか
- なにに従い、なにを守るべきのか
- なにを求め、なにを受け入れればいいのか
このあたりの「意味」を、どこかで納得していないと、社会は崩壊する。
ここで必要になるのが、
世界観
そしてその普遍的な世界観を、体系立てて示したのが、当時は仏教だったってわけ。
天台宗は、思想の“調停者”
日本の為政者は、その世界観の構築を仏教に求めた。
社会秩序を維持する装置として。
中でも、天台宗が国家に重宝された理由は、至極真っ当。
過激じゃないから。
- 即身成仏、一乗思想
- 選民的にならない、他宗派を攻撃しない
- 努力を否定しない、ストイックにもなりすぎない
なにかに偏った立場をとらない。
一方、尖った宗派は、人を強く動かすことがある。
でも、その動きが過ぎると、社会は一気に不安定になる。
- 熱狂
- 反体制
- 選民意識
国家は、これを怖がる。
天台は、熱狂を生みにくい。
天台の教えは、
社会を壊さない仏教
社会の緊張を吸収する仏教
仏教思想の基礎を成し、あらゆる思想を統べる“調停者”のような存在。
そして比叡山は、全てをまとめて包む、“国家権力の緩衝材”みたいな存在やったとも言える。
社会の中心に据えるにふさわしかったわけやね。
☆最後に、モテエロZEN的に読む(笑)
最澄タイプは、安心感がある。
- 極端じゃない
- 空気を壊さない
- でも芯はある
空海タイプは、圧倒される。
- 欲や野心を隠さない
- 強靭な肉体と精神
- 理想の体現者
若い頃は、空海に惹かれやすいかもしれん。
でも人生が複雑になればなるほど、最澄の価値が分かってくる。
そして理想は、
最澄の器に、空海の一点突破の閃光を持つこと
みたいな感じかも(笑)。
真言密教的な尖った男は、他を圧倒する魅力を放つ。
もしかしたら革命も起こす。
でも、一緒に暮らすのは、ちょっとしんどい(笑)。
一方、天台的な中道の男は?
対立を調整し、多様性を受け止め、秩序を保つ。
こういう“いなくなると困る人”がいるから、社会は安定するし、集団は長生きする。
これもまた、一つの魅力。
若い頃は空海に憧れ、人生が進むほど最澄に救われる。
この二人の魅力で、人間は完成するのかもしれん。
☆日本仏教の幸運
最澄と空海は、勝ち負けの関係じゃない。
役割が違ったってだけ。
一人は、仏教が続く“仕組み”を作り、もう一人は、仏教が到達しうる“極点”を示した。
この二人が同時代にいたことは、日本仏教最大の幸運やったんかもしれんね。
天と最。
真と空。
どちらが欠けてもあかんかった。
並存したからこそ、二人は、日本仏教の象徴になったんやな☆


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