☆こないだ『歎異抄』を読み返してね
相変わらず、「阿弥陀さまのお力を信じましょう」の一点張り(笑)。
でも、改めて心深くに染み入ったと同時に、
「これはやっぱ誤解されるよなぁ・・・」
とも思ったのよね。
そこで今日は、「まっつんスタイル的『歎異抄』を読む」をお届け。
親鸞さんの教えの真髄を理解するには、2〜3回の発想の飛躍がいる。
でも、なんとなくでも腹に落とすことができた瞬間、ようわからんけど涙が出ると思う・・・(笑)。
そんじゃいってみよう。
☆親鸞さんのヤバい前提
ほなまず『歎異抄』とは?から。
簡単に言うと、
- 鎌倉時代(およそ700年前)の仏教書
- 全18章からなり、親鸞さん(浄土真宗の開祖)の言葉が数多く記されている
- 著者は、親鸞さん本人ではなく、高弟の唯円との説が有力
- 「悪人正機」、「他力本願」の思想が有名
- 「誤解を招く」として、長く封印されてきた
そしていきなり、まっつんスタイル的・“浄土真宗(歎異抄)の奥義”。
それは、
『自分の人生は、自分の努力でより良いものにできる!』という“執着”からの解放
我ながらだいぶザックリやけど(笑)、でもこれ、ほぼ“親鸞地獄”に踏み込んどる思う。
もう少しだけ言い換えると、
- 人間は → 善をなそうとしても、必ず自己正当化が混じる
- 努力・修行・善行は → 「やれてる自分」への執着を生む
- その時点で → もう“煩悩の計算”に組み込まれとる・・・
つまりやな、
「努力で救われようとする心」そのものが最大の煩悩
ここ、普通の倫理観とか宗教観からしたら、二段階くらい飛躍しとる。
初見で理解できる人はそうおらんし、そりゃいろいろ誤解を招くわなぁって話。
でもこれ、まだ親鸞さんを理解する前提(笑)。
☆「阿弥陀さまを信じる」って、何を信じてるのか?
『歎異抄』の一番誤解されるとこ。
×よくある誤解
- なんか神さま的なもん?
- どうせ助けてくれる
- 何もせんくていい
- 悪いことしてもOK
- 思考停止でOK・・・
◯親鸞さんが言いたかったこと(超要約)
「どれだけがんばっても“完全に正しい自分”にはなれない」
この事実を、心の底から引き受けた時、人は初めて、本当に他者に優しくなれる
阿弥陀仏は、「努力を免除する神」じゃない。
自己救済幻想を粉砕する装置
この核心。
ついて来れる?(笑)
☆「なら悪いことしてもええやん?」がズレてる理由
これ、親鸞さんの逆説の極北。
親鸞さんは実際、
「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」
って言ってる。
日本中、というか世界中に轟いた、超有名なフレーズ(笑)。
これを誤読すると地獄やけど(笑)、意味はこう↓。
- 善人:「自分は善だ」という自己像に縛られている人
- 悪人:自分の「どうしようもなさ」を自覚している人
つまり、
“自分は正しい”と思ってる人間ほど、一番、救いから遠い
これが「悪人正機」。
一瞬「ん?」ってなる。
一見、倫理破壊にも見える。
けどそうじゃない。
これは、倫理の最深部。
さぁ、おもしろくなってきた(笑)。
☆「努力しても意味がない」は、半分正解、半分ハズレ
親鸞さんは、「努力をするな」とは一言も言ってない。
言ってるのは、
- 努力を → “救いの条件”にするな
- 努力を → “自分の価値証明”にするな
ってこと。
努力はすればいい。
でも、
「努力してる俺、エライ」
「努力できない奴、ダメ」
こういう価値判断がベッタリへばりついた瞬間、即アウト。
『歎異抄』は、そのように説く。
これ、昨今の競争社会、自己啓発・成功哲学・モテ論・資本主義、全部に当てはまる。
親鸞さんは、
→ 努力を否定したんじゃない
→ 努力に依存する心を否定した
うん・・・、深すぎて窒息しそう(笑)
☆そして、「他力本願」の本当の意味(誤解されすぎ問題)
で、「他力本願」ね。
2回も3回もねじれて、意味が曖昧になっちゃってるこの言葉。
まっつんスタイルがピシッと正すわな。
「他力本願」ってな、
- なんでも人任せ → ×
- 自分じゃ何もしない → ×
- 思考停止 → ×・・・
そんな意味ちゃう。
日常会話ではどうか知らんけど、少なくとも、歎異抄的にはちゃう。
本来の「他力本願」はズバリ、
「自力で自分を救える」という幻想を、諦める勇気
これや。
まぁ一番むずいやつやけど(笑)。
でもこれ、ちゃんと腹落ちさせられたら、生きるのがホンマに“ラク”になる。
☆ちょっと小話・ショーペンハウアー/ハイデガーと親鸞
実は、近代西洋哲学者が、親鸞さんについて言及してる、なんて話もある。
ちょっとおもろいから、軽く触れとく。
☆ショーペンハウアーについて
「まともに影響を受けてました」なんて言うと誤解なんで、やや慎重に。
ショーペン・ハウアーが、
- 仏教全体を称賛してるのは事実
- 特に、「意志の否定/執着からの解放」あたりの概念
- ただし、親鸞を直接名指しで論じた記録は確認されていない
思想的に親鸞と“深く共鳴した部分がある”、くらいが正確なところ。
いずれにしても、親鸞さんが西洋哲学と噛み合ったって事実は胸熱。
☆ハイデガーについて
こっちはかなりおもろい。
- ハイデガーは、日本の思想家・僧侶と深く交流してた
- 特に、西田幾多郎、久松真一、鈴木大拙あたり
- その流れで、親鸞思想にも強い関心を示したとされる
有名なのは、
「親鸞は、宗教思想の中で最もラディカルな(根本的な)存在の一人だ」
っていう趣旨の評価をしてること。
ただしこれも、
- ハイデガーの著作に体系的に出てくる → ×
- 日本人弟子との対話、講義録で言及 → ◯
くらいの位置づけ。
要するに👇
→ 西洋哲学が“自己責任”を極限まで突き詰めた先で
→ 親鸞の“自己不能性の受容”という思想に衝撃を受けた
って感じ。
“親鸞哲学”、もはや“人類哲学”のど真ん中(笑)。
☆まっつんスタイル的・親鸞さんの読み方(中間まとめ)
閑話休題。
ここで一回、“親鸞哲学”を、まっつんスタイルで言い切ってみる。
親鸞さんは、「がんばれ」とも「諦めろ」とも言ってない
「がんばれる自分でいなきゃ、生きる価値がない」っていう“呪い”をまず捨てろ
そう言ってる。
これ、おもろいよね。
実は「禅」とも少し違うし、現代的倫理観とも違う。
宗教としても、かなりの異端レベル。
さて、じゃあ次からは、『歎異抄』の世界にもう一歩深く踏み込んでみる。
まだ深いん?
そう、まだ深い(笑)。
☆ここでふと、疑問が“自然発生”する
この疑問、浄土系に限らず、仏教ガチ勢がほぼ必ず一回は通る道。
現代人ならなおさら。
「じゃあ俺らは、何を原動力に生きたらええの?」
「幸せって、感じたらあかんの?」
「人生の喜びって、どこにあるん?」
でもこの疑問が湧くってことは、仏教の世界観が、体に馴染み始めた証拠でもあるんよね。
なんでかっていうと、
- 「“苦”とは何か?」を問い始めた
- “執着”の存在を感じ、疑い始めた
- “努力信仰”が揺らぎ始めた
その結果、“現代人的エンジンが止まりかけてる状態”やから。
さぁ、こっからが、“歎異抄的救い”の本丸。
② 西洋的自己啓発と、「親鸞哲学」の決定的な違い
☆西洋的自己啓発の構造
- 目標を持て
- 努力しろ
- 成長しろ
- できる自分であれ
- 幸せは「獲得」するものだ
→ エンジン:不足と欠乏、比較と評価
☆親鸞の構造(これがヤバい)
- 人は思ったほど自由じゃない
- 善をなそうとしても、煩悩が混じる
- 自己改善は、自己執着を強化する
- 「正しく生きよう」とするほど苦しくなる
- だから“正しさ”を手放し、阿弥陀さまに委ねる
→ エンジン:そもそもゼロにまで落とす
あえてシンプルにまとめてみた。
でもここが、もっとも危険で、同時にめちゃくちゃ深いところ。
☆じゃあ親鸞さんは、何を原動力に生きろと言うのか?
ここも誤解されがち。
だから、もう一回ハッキリ確認しとく。
親鸞さんは、
- やる気を捨てろ
- 喜びを感じるな
- 何も目指すな
とは言ってない。
そう、言ってない。
そうじゃなくて、原動力を、もっと根源的なものに差し替えた。
☆親鸞さんが置いた原動力(ここ、超重要!)
現代語にすると、これ。
「もう、“価値ある人間であろうとする努力”みたいなものを、人生のエンジンにするな」
じゃあその代わりに何が来るのかというと、
生きてしまってる
今日も息をしてる
すでに多くの関係性の中にいる
つまり、存在そのものを原動力にする。
努力は「条件」じゃなくて、“結果として起きる副産物”になる。
このあたり、“悟りすぎて”ちょっと難解かもしれん・・・。
でも大丈夫。
まだいける(笑)。
☆幸せを感じたらアカンのか?
これもよくある誤解。
親鸞さんは、幸せを禁止してない。
そんなよーわからんことは言わない(笑)。
禁止してるのはこれ↓。
「“幸せである自分”に価値を感じる」という構造に取り込まれること
つまり、
- 幸せ → ◯
- 幸せな自分でありたい → ×
この違い。
この微妙な違い。
仏教思想の根本が、「執着からの解放」と理解するならば、これは腹落ちしやすいはず。
ちょっとずつ肩の力が抜けてきた?
さて、救いはもうすぐそこ。
☆じゃあ人生の喜びはどこにあるのか?
親鸞的に言うと、人生の喜びはこれ↓。
「ちゃんと生きようとして、失敗し続けている自分を、それでも見捨てなかったこと」
だから、浄土真宗の喜び、歎異抄的喜びって、
- 高揚感
- 達成感
- 成功体験
じゃない。
安堵(あんど)
- もう証明せんでええ
- もう正しくあろうとせんでええ
- それでも生きていてええ
この静かな喜び・・・。
気持ちいいとこなんでもう一回(笑)。
浄土真宗の喜び、歎異抄的喜びって、
- 高揚感
- 達成感
- 成功体験
じゃない。
安堵(あんど)
- もう証明せんでええ
- もう正しくあろうとせんでええ
- それでも生きていてええ
この静かな喜び・・・。
やっとここまできた。
泣いていいよ(笑)。
☆「安堵」がヤバい理由
現代人が想定してる「人生の喜び」って、だいたいこんな感じ。
- 達成・実現
- 成長・更新
- 承認・称賛
- 勝利・獲得
- 金銭・名誉
でも親鸞さんが出してきた答えは、
安堵(あんど)
これ、ぜんぜん違うよね(笑)。
- 前に進む喜び → ×
- 上に行く喜び → ×
- 手にする喜び → ×
体の力が抜けて、崩れ落ちるような喜び
これを「救い」って表現する教え、ちょっと他にない気がする。
初めて「親鸞哲学」に触れて、少しずつ理解が進んで、「安堵」って言葉にたどり着いた時、まっつんスタイルは、
- ゾクッ
- 涙腺ユルッ
- 「ヤベェ・・・」
そんな感じやったね。
今でも覚えてる。
ずっと無意識に背負ってきた「ちゃんとせなあかん!」が、一瞬、外れた感覚
ジワ〜っと静かに効くやつ。
「うわ〜、ホンマや〜・・・(涙)」ってね(笑)。
☆現代に親鸞さんが生きてたら、何て言うか?
これ、ちょっとおもろそうやから、まっつんスタイル的にリアルに想像してみる(笑)。
たぶん親鸞さん、TEDトークも、自己啓発本も、SNSも見たうえで、こんなこと言うんちゃうかな?
「ていうかさぁ、“がんばらなあかん”って、誰が決めたんや?」
「成長せんと意味がないって?知らんがなそんなもん」
「それ、ホンマに手に入れなあかんもんか?」
「しんどなったらさ、一回“もう無理ですねん”って言うたらえんちゃうん?」
「そっからやっと、人は、自分にも他人にも優しくなれるんやと思うけどな」
これめちゃくちゃ、現代人に刺さると思う。
でもたぶん、同時に嫌われる(笑)。
☆なぜ現代人に嫌われるのか?(でも救うのか?)
親鸞さんの思想が嫌われる理由って、意外とハッキリ言える。
- がんばってきた人ほどイラッとする
- 正しさで武装してきた人ほどモヤっとする
- 自己啓発で自分を支えてきた人ほどグラッとする
だって親鸞さん、こう言うてるのと同じやから。
「その努力、別にあんたを救ってへんで」
「そやろ?」
って。
そら嫌われる(笑)。
「親鸞哲学」って、ホンマに恐ろしくてね。
- 教義はシンプル
- 言葉は優しそう
- なんかハードルも低そう
でも実際は、
これまで築き上げてきた自己イメージが、一回死ぬ可能性がある
これ、“悟り”よりキツい人も、中にはおる。
でも同時に、
「まっ、それでも、あんたは生きててええけどな」
って言ってくれる。
そらもう泣くしかない(笑)。
「親鸞哲学」は、できない前提。
迷う前提。
失敗する前提。
そんな
どうしようもない人間に示してくれた道
なのよね。
だから、最初は嫌いでも、やがて救われる。
救われてしまう。
☆まっつんスタイル的・最終翻訳
さてさて、思ったより長文になってもうた(笑)。
『歎異抄』が示した「親鸞哲学」、ちょっとは理解が深まったかな?
じゃあ最後に、まっつんスタイル的文脈で、そこそこ言い切ってみる。
親鸞さんは、「人生をより良くしよう」とは言わなかった
「人生を“正しく経営しようとする癖”から、一回降りてみたら?」って言ってくれた
親鸞さんは、「別に倒れてもええやん」って言ってくた
「心配せんでも、倒れたままで、もう救われとるから」って言ってれた
そして、
- 原動力は「目標」じゃない
- 幸せは「条件」じゃない
- 喜びは「勝利」じゃない
→ すでに生きてしまっている事実
→ それでも続いている関係
→ たとえ失敗しても、戻れる場所
これらを全部、マルっと引き受けた先に立ちあらわれるのが、
安堵(あんど)
この思想、世界観こそが、『歎異抄』の真髄。
浄土真宗と親鸞さんのヤバさ。
もし、ゾクッとして、うっすら涙が・・・みたいな反応が出たら、それはもう親鸞さんに抱きしめられた証拠(笑)。
「理解した」じゃなくて、“心がほどかれた”証。
「悪人正機」、「他力本願」、恐るべし☆


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