☆「遊び = 悟り」は意外?
大人になると、「遊び」って言葉の定義がなんとなくネガティブに触れる。
「暇」「娯楽」「サボり」みたいな軽い言葉のカテゴライズされがち。
ひどい時は「ふざけてる」「不真面目」「卑猥」みたいに言われることも・・・。
「いやいや待ったれよ」と、まっつんスタイル的には言いたくなる。
「ええやん、大人が遊んだって?」と(笑)。
それに、まっつんスタイルのど真ん中、ZEN /TAO的(東洋哲学的)に見れば、
「遊びこそ、実は“悟りの最短ルート”」
なぜなら「遊び」は、
「自我が薄まり、五感が広がり、世界との境界が溶ける瞬間」
まさに「自我の喪失」そのものやから。
つまり、「遊んでる時、人は自然と“無我”に近づいとる」というのがまっつんスタイルの解釈。
童心の「夢中」や「没頭」と言えばわかりやすいかな?
別に意外でもないやろ?
☆自我が消えるとき、人は救われる
子どもの頃、時間を忘れてサッカーや卓球にのめり込んでたあの感じ。
テレビゲームに没頭して、気づいたら夕方になってた瞬間。
プラモデルやレゴブロックを夢中で作ってたあの頃・・・。
全部「自我が一時的に消えた時間」なんよな。
仏教でいう「無我」であり「空」。
道家的には「柔弱自在」であり「無為自然」。
まっつんスタイルZENで言うと「調う」(ととのう)。
すべてが“遊びの状態”と一致しとる。
こんなもん偶然でもなんでもない。
人が癒され救われるのはそういう時。
どこまでも純粋で、どこまでも気持ちいい瞬間。
☆“遊び”には本能的な意味もある
遊びは「生きるためのリハーサル」であり「世界を知るためのデモンストレーション」。
人間も動物もそう。
だから子供は遊ぶ。
意味も価値も正解もなく、ただひたすら遊びたくて遊ぶ。
でも、下手に知恵のついた大人の遊びは少し違う。
まっつんスタイル的「大人の遊び」とは、
「生きるためではなく、世界との境界を一瞬薄くしようとする意識的な意思であり儀式」
結果に関係なく楽しもうとすること、一生懸命に全力を尽くそうとすることならなんでも遊び。
仕事も恋愛も勉強も、筋トレも断食もブログもぜ〜んぶ遊び(笑)。
- 五感が開く
- 注意が“今”に集中する
- 自意識が薄まる
- “やらねば”が消える
- 呼吸が深くなる
- 時間感覚が変わる・・・
これ、すべて“禅的無我”のサインそのもの。
子供は本能で遊ぶ。
大人はその本能を“意識して”、日々を遊びに変えていく。
これ、まっつんスタイル的“無我の境地”に至る知恵。
☆なぜ遊びは悟りよりも強い?(反語)
これ、理由はシンプル。
「遊びだけは、努力しなくても没入できる」
座禅は“がんばる”と逆に心がざわつく。
瞑想は「集中せねば!」と思うと雑念の嵐。
修行は「悟りたい!」という“達成欲”が邪魔をする・・・。
これホントにあるある。
悟りにまともに直行しようとする手法は、ある意味弱い。
でも遊びはどうかというと?
“勝手に没入する”から、悟りの本質を“自然に再現”してしまう。
めっちゃ強い(笑)。
これが「遊び = 悟り」の根拠。
だんだんイメージできてきたかな?
☆遊んでる時ほど“魅力”が漏れる理由(エロモテZEN)
そしてまっつんスタイルの核心(笑)。
「“無我”の瞬間は、最も“エロくて魅力的”な瞬間」
これ本気でそう。
- 自意識が薄い男=余裕
- 動きが滑らかな男=色気
- 五感が開いてる男=安心感
- なにかに夢中な男=かわいい
- 表情が温和な男=親近感が湧く
女子は“無我の男”に本能レベルで惹かれる。
なぜなら
「“生命力”が最も“素”で出てる状態」
やから。
エロとは生命エネルギーの開放。
ZEN(禅)とは生命エネルギーの調和。
つまり
「エロと禅は本来ひとつのもの」
“遊び”は、その交点。
“遊び”とは、実はとっても高尚な営み(笑)。
☆「遊ぶほど悟りに近づく」がまっつんスタイルの結論
悟りとは、神秘的な体験でも、血反吐を吐くような修行でもない。
「自分と世界との境界がフッと薄れた瞬間」
それを最も自然に起こすのが“遊び”。
- 書きたいから書く
- 描きたいから描く
- 作りたいから作る
- 行きたいから行く
- 会いたいから会う
- 観たい、飲みたい、触りたいから・・・(笑)
そこにしょーもない“意味付け”や“義務感”が混じらなくなった瞬間、人は自動で「悟り」に向かう。
そしてそれこそが
まっつんスタイル的な“遊行”(ゆぎょう)
やと思う。
さぁ、遊ぼう〜(笑)☆


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