花を手向けるということ 〜言葉よりやさしい、愛のかたち〜


墓前に供えられた花を見るたびに、少しだけ不思議な気持ちになる。

「人はなぜ、死んだ人に花を贈るのか?」

お金でもなく、食べ物でもなく、なにか役に立つものでもない。

なぜか人は、死者に「花」を手向ける。


考えてみれば、花というのは奇妙な贈り物だ。

下手に触れれば傷つき、香りはすぐに逃げ、数日後には萎れて、やがて捨てられる。

特に実用性もなく、保存も効かず、時間に抗うこともできない。

それなのに人は、人生のいちばん大きな別れの場面で、迷いなく花を置く。

なぜか?

それはきっと、花が「命そのもののかたち」をしているからだと思う。


花は咲く。

満ちる。

香る。

そして、散る。

この流れは、人の一生とそっくりだ。

どれだけ美しく咲いても、どれだけ愛されても、最後には必ず終わる。

でも、その「終わり」があるからこそ、咲いている瞬間が輝く。

花を手向けるという行為は、「あなたの人生は、ここで確かに咲いていた」。

そう言っているのに近い。

そう思う。


言葉で「ありがとう」と言うのも、「さようなら」と言うのもいい。

でも、花を一輪、そっと置く方が、ずっと正直で、ずっとやさしい。

言葉はどうしても、説明になってしまう。

評価が加わり、解釈が混じり、時には嘘にもなる。

でも花は違う。

ただそこに在るだけでいい。

意味を語らないからこそ、どんな感情でも預けることができる。

悲しみも、愛も、後悔も、感謝も。

花はそれを、黙って引き受けてくれる。


だから人は、死者だけでなく、生きている人にも花を贈る。

例えば送別会で。

結婚式で。

恋人に。

病室に。

大好きなあの人に、お世話になったあの方に、うまく言えなかった気持ちを、花に託す。

言葉にしたら壊れてしまいそうな想いを、花に預ける。

そう、花はまるで、感情の翻訳機のようだ。


そして、ここが少しだけ“エロ”の話になる。

花は役に立たない。

すぐに枯れる。

お金にもならない。

効率も悪い。

それをわざわざ贈るということは、どういうことか?

それは、「私は、あなたが役に立つから好きなんじゃない」ということの意思表示だ。

「あなたといると得だから一緒にいる」でもない。

ただ、そこにいるあなたが好き。

存在そのものが美しく、そして愛しい。

花を贈るという行為は、そういうメッセージを含んでいる。

だから、花を自然に使える男は、どこかエロい。

欲ではなく、存在そのものを祝福しているから。


そしてこれは、ZENともつながっている。

茶室の床の間に置かれた一輪の花。

庭にひっそり咲く野の花。

あれは「飾り」ではない。

「今、この瞬間の美」を切り取る行為。

花は、永遠を目指さない。

ただ、今を生き切る。

だから見る人の心も、今に戻る。

未来の不安や、過去の後悔が、ふっと薄れる。


花のある暮らしが、なぜ心を整えるのか?

それは、花が、「足りている」という感覚を思い出させてくれるからだ。

もっと欲しい。

もっと得たい。

もっとこうなりたい。

そういう自我の声が、花の前では少しだけ静かになる。

咲いて、香って、散る。

それでいい。

それだけでいい。

この瞬間が、すでに完成している。

そう思えるからだ。


だから人は、死者に花を手向ける。

「あなたの命は、ここで終わった」。

「でも、その終わり方は、とても美しかった」。

そう伝えるために。

そして、生きている私たちも、日常の傍に花を置くことで、無意識のうちにそのメッセージを受け取っている。

人生は、咲いて、満ちて、散る。

それでいい。


花を贈れる男は、人生が永遠じゃないことを知っている。

花を飾れる男は、今がすでに足りていることを知っている。

そしてその静けさは、不思議とモテエロZENの香りがする。


次に誰かに会うとき、言葉の代わりに、一輪の花を持っていくのも悪くないかもしれない。

それはたぶん、「あなたがここにいるだけでいい」という、いちばんやさしい告白になりうるから☆


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