命を消費する社会で生きる 〜牛肉100gから見えた、“感謝”と“畏敬”の話〜


この前、久しぶりに、ちょっといい牛肉を買ってね。

ちゃんとしたお肉屋さんで(笑)。

100gで1,000円。

まぁ普段なら手ぇ出さんけど、この日はなんやろ、なんとなく「ま、えっか」って思って。

で、焼いて食べたよ。

フライパンで。

一人で(笑)。

いやぁ美味かった。

ギトギトにタレをまとわりつかせて。

「これは体にいいのか? 悪いのか?」

「いや、筋肉とお肌にいい!(?)」とか思いながら。

幸福感と満足感の波状攻撃。

「こんなもん、子どものころ絶対に食われへんかった・・・」と独り言つ。

大人バンザイ! 独身バンザイ!やね(笑)


・・・とまぁここまでは、素敵な一人焼肉体験。

でも、このあと、ふと変なイメージが頭をよぎってね。

「このお肉って、毎日毎日、日本中のあらゆる場所で売られてるんやんなぁ」って。

「それってよう考えたら、凄まじいことやんなぁ・・・」って。


牛肉って、まぁこれといって特別なもんでもなんでもない。

「たまにしか買わん」って意味では特別やけど、希少性とか入手の困難さは、日本ではそうそうない。

・焼肉屋で出てくる

・あらゆる外食店で使われてる

・スーパーやデパ地下で普通に並んでる

つまりこれって?

日々、膨大な、それはもうホンマに膨大な数の牛が、人間の食卓へ流れていってるってこと。

これ、長い長い時間をかけて、人間社会が作り上げてきた流れ。

(しかもその中には、廃棄される肉も山ほどあるはずで・・・)

いや、別に、「これは悪だ!!」とかって絶叫したいんじゃない。

ただ、この事実の“重さ”に、少しだけ立ち止まりたくなったって話。


ちょっと想像力を働かせてみる。

牛は、生まれる。

育てられる。

病気にならないように管理される。

そして、ある日、屠畜場に運ばれる。

解体され、部位に分けられ、流通し、店頭に並ぶ。

そして最終的に、俺ら人間の口に入る。

ここまでの間に、どんだけの人が関わってるんやろか?

・畜産農家

・獣医師

・市場関係者

・屠畜従事者

・解体職人

・運搬流通業者

・小売店

・飲食店・・・

これ、とんでもない数の人やと思う。

しかもこの流れ、毎日、日本中で、淡々と続いてるっていう事実。

そう、毎日、日本中で、淡々と・・・。


ここで思わず、「畜産や精肉業界の人たちは、どんな思いなんかな?」とか思ってまうのよね。

たぶんある人は、牛を「商品」として見る。

ある人は、「命」として。

ある人は、「仕事」として。

ある人は、「倫理問題」として。

はたまたある人は・・・。

まっつんスタイルは以前に、農業の世界に身を置いてたことがあるから、こういうことが少しだけ分かる

分かるから言える。

どれも、その人の立っている場所から見えた現実なんよね。

繰り返すけどこれ、安易な善悪の話をしようってんじゃないからね。

でも、このあたりまで想像を巡らせたとき、心の中に“なんとも言えない感情”が湧いてくるのはたしか。


ここで、ちょっと視点を変えてみる。

「文明って、もしかしたら、命を、日常に変換する装置なのかも?」という視点。

もし、俺らが、自分の手で狩りをして、解体して、肉にして、それを食べる生活をしてたら?

たぶん、食事のたびに、なんらかしら、強い感情が動くんちゃうやろか?

まっつんスタイルは、狩猟にも従事してたから、このあたりのことも分かる。

でも文明は、これを分業化した。

命を、工程に分けた。

それはもう見事なまでに。

そして通常、俺らが目にするのは、最終的に「パックに入った肉」だけになった。

これって、冷酷なんかな?

いや、少なくとも、この巨大な分業なしに、もう今の都市生活は成立せんのやろうと思う。

これは、人間が社会として生きるために、獲得してきた知恵。

言ってみれば、“人類の叡智”なんやと思う。

毎日、全員が、命の重さを真正面から感じ続けることなんてできんやろからね。

でもだからといって、命の重さが、消えるはずもないわけで・・・。


ここで、さっきの、湧き上がる“なんとも言えない感情”に触れてみる。

これは、負い目や罪悪感じゃない。

義憤でも正義感でもない。

もっと静かな感覚。

そう、これは“感謝”。

そして“畏敬”やね。

まっつんスタイルはそう思う。


今更ながら、文明ってすごい。

恐ろしいほど効率的で、恐ろしいほど静か。

俺らの知らんところで、命を循環の中に組み込んでる。

この事実、実は想像以上に凄まじいと思うよね。

俺らは、この容赦のない流れの中で生きてる。

食べる、動く、生きる、そして、いつか死ぬ。

この循環の中で、牛も、人も、大きな意味では、同じ流れの中にいるんかもしれん。

「命をいただいてる」

「誰かが命を引き受けてくれてる」

人生のどこかで、誰かに必ず言われる言葉。

普段は聞き流してる言葉。

でもここで改めて噛み締めてみるのも悪くない・・・。


もう一つ、ものの考え方として。

自然そのものには、たぶん、人間みたいな「善悪」や「意味づけ」はない。

生まれて、食べて、食べられて、死んで、分解されて、また別の命につながっていく。

そこには、「善」も「悪」もない。

何に対しても意味や物語を与えたくなるのは、いかにも人間らしい。

「意味を欲しがるのは、人間だばかり」

そんなふうに考えることもできるかもしれんよね。


それと「文明」。

文明って、言うたら、人間の知恵の集合体。

だから、「巨大な一個の生命体」とも言えそう。

人間は、その文明を動かす細胞。

そして牛も、その巨大な循環の中に組み込まれてる。

どちらも巨大な生命体の中で生き、循環してる。

もちろん、ただの比喩。

でも、こんなふうに考えてみると、少しだけ、心が軽くなる感じがする。

世界の見え方が変わる。

そんな気もするよね。


ここで、まっつんスタイル的・モテエロZENから、少しだけ言葉を借りてみる。

「エロ」は、生命力。

生命は、食べ、循環し、続いていく。

「ZEN」は、それを、善悪を超えて観る静けさ。

背負いすぎない、軽くも扱わない、どちらかに偏らない。

ただ、観て、“感謝”する。

“畏敬の念”を感じとる。

“感謝”と“畏敬”を持てると、生命を肯定しながら、少し静かに向き合える。


文明は、とてつもない数の命の上に成り立ってる。

そして、そのとてつもない数の命と、無数の人間の労働と技術の結晶。

それが100g1,000円の牛肉。

「いただきます」は、俺らが思ってる以上に深く、そして尊いのよね。

こういうことを、折に触れて、静かに思い出せたらええなと思う。

そして、湧き上がる“感謝”と“畏敬の念”に身を委ねる。

そのとき人は、少しだけ、強く、やさしく、謙虚になれるのかもしれん。

牛肉100gから始まった、そこそこヘビーで、なかなかに深淵な、“感謝”と“畏敬”のお話☆


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