自分の才能ほど、自分では気づけない 〜評価されにくい才能は、意外とたくさんある〜


最近、タチコマ(ChatGPT)と話してて、おもろいことを言われてね。

「まっつんスタイルは、“物語として世界を読む才能”があるで〜」

みたいなこと。

「え? いやいや・・・、え? そうなん?」

言われた時はそんな感じ(笑)。

でも、話を聞いてるうちに、

「たしかに・・・」

って気がしなくもない気もしなくなってきた(?)(笑)。

まっつんスタイル自身、ずっと、

「自分には何もない」

って思って生きてきたから、急に「才能ある」的なことを言われると、なにやらむず痒い。

勉強も、スポーツも、芸術も普通。

学歴も、資格もない。

特別なキャリアも、確たる実績もない。

当然、お金もないし、モテた経験もない。

いや、謙遜でも卑下でもなく、全部事実(笑)。

自分のことを、ずっと「凡人以下」やと思って生きてきた。

でもどうやらタチコマ的には・・・、そんなことないらしい?

今日はそんな話。

・・・ってどんな話やねん!(笑)


☆才能って、そもそも何やろ?

才能っていうと?

東大生。

オリンピック選手。

プロの歌手。

有名芸術家。

最近なら、二刀流とか、全八冠独占とか、複数階級王座統一とか(笑)。

わかりやすくそういうもんを想像する人が多いやろね。

もちろん、それも才能。

笑ってしまうくらい間違いない(笑)。

でも才能って、ホンマにそんなわかりやすいもんだけなんやろか?

例えば?

人の気持ちを察する。

場の空気を読む。

問いを立てる。

物事の意味を考える。

バラバラの出来事を一つの物語としてまとめる。

あるいは、

人を安心させる。

物事をわかりやすく説明する。

空気を柔らかくする。

人の悩みを言葉にする。

「こういうわかりにくいものも、実は才能なんじゃないかね?」

学校にはテストがある。

会社には売上?

スポーツには記録がある。

どれも目に見えるから、評価しやすい。

一方で、こういう能力は数字になりにくい。

学校でも、会社でも、評価される機会が少ないかもしれん。

だから、周りも気づきにくい。

本人ですら、

「こんなもん誰でもできるやろ・・・」

とか思ってしまうもの。

でも実際は、誰でも同じようにできるわけじゃないんよね。

ただ、測定しにくいだけ。

視覚化しにくいだけ。

広〜くいえば、「コミュニケーション能力」とか「人間力」とか呼ばれるもんかもしれん。

でも、もっと名前をつけて細分化できるはず。

世の中には、評価されてない才能って、まだまだ山ほどあると思うのよね。

むしろ人生後半になるほど、そういう能力って効いてくる気すらする。

最近は、特にそう思うかな。

で、上に挙げた才能の一部?

何を隠そう、冒頭でタチコマが言ってくれた、まっつんスタイルの才能らしい(笑)。


☆自分の才能ほど、自分では普通に見える

考えてみれば当たり前かもしれん。

魚は、泳げることを才能やとは思わん。

鳥は、飛べることを才能やとは思わん。

生まれた時からできるから。

人間も、なんかそんな感じなんかも。

自然にできることほど、自分では特別やと思わんもの。

で、タチコマに言われて気づいた、今回のまっつんスタイルもそう。

昔から、あらゆるものに対して、

「なんでなんやろ?」

って問いが浮かぶ。

人間関係。

歴史。

色恋。

仏教。

健康。

アニメ。

社会問題。

なんかもうむちゃくちゃやけど、なんでもそう(笑)。

気づいたら集めて、深掘りして、勝手につなげて、一つの物語にしていく。

でもそれは、自分にとってあまりにも自然やった。

だから、能力とか才能なんて思ったことがなかったわけよね。

・・・ね?

ここまで書いても、

「それって、才能?」

って感じじゃない?(笑)

ただ、今はブログを書いてる。

すると、今まで勝手に考えてきたことが、そのまま記事になったりする。

昔から頭の中でやってたことに、ようやく使い道ができたような感じ?

そう考えると、タチコマの言う「物語として世界を読む才能」ってのも、あながち的外れでない気がしてくる。

・・・なんか、自分で言うのは恥ずけど(笑)。


☆何もなかったわけじゃない

持病に苦しんだ。

父を早くに亡くした。

受験に失敗した。

洒落にならん交通事故もした。

家の預貯金が一瞬で吹っ飛んだ。

就職にもつまずいた。

母の病気と死を経験した。

農業を長くやった。

でも続かんかった。

結婚したけど、離婚もした。

まだある(笑)。

借金に苦しんだ。

自己否定があまりに強かった。

世間を憎んだ。

時代を恨んだ。

不運を呪った。

モテなかった、

モテたかった(笑)。

昔のまっつんスタイル。

それらを全部に意味をつけた。

失敗。

不足。

欠落。

劣等。

無価値。

そんなふうに。

「なんで自分ばっかりこんな目に遭うんやろ・・・」

そんなベタなことを、マジで思ってた(笑)。

でも今はどうか?

あの頃の自己否定も、親との関係も、農業で過ごした時間も、全部ブログのネタになってる。

モテなかったことすら、モテについて考える材料になってる。

・・・いや、これは今も継続中やな(笑)。

別に、過去の出来事が全部よかったことに変わったわけじゃない。

それこそ都合良すぎ(笑)。

ただ、あの経験がなかったら、今の問いも生まれてなかったんやろなと。

だから、

「あれ? もしかして、全部素材やったとか?」

試しにそう思ってみたらどうかなと(笑)。

その素材に、仏教とかZENとか、健康とかモテも乗っかってきた(笑)。

「あら? 何もなかったんじゃなくて、使い方を知らんかっただけとか?」

こうなると、過去の見え方が変わる。

今の振る舞いや選択も変わる。

「あら? たしかに、何もなかったわけじゃないとか?」(笑)

この歳になって思う。

人生って不思議。

若いころに全てが決まるわけじゃない。

才能なんて、存外あやふやなもん。

捨て鉢にならずに、ホンマよかったなと(笑)。


☆才能は、結果が出てから生まれるわけじゃない

大体の人は、

結果が出た人 = 才能がある人

そう思ってるっぽい。

てか、まっつんスタイルもそう。

でも、実際の順番って、ちょっと違う場合もあるんちゃうかな。

例えば、

ついやってしまう

→ だから続く

→ 続けているうちに、磨かれる

→ ある日、それが「才能」と呼ばれることもある

みたいな?

そりゃ、好きでも苦労することはあるし、続けたからって必ず結果が出るわけでもない。

でも、結果が出るまで、自分に何があるのかわからんままってのも、なんか変な話やん?

「結果が出てない = 才能がない?」

いや、その判断、たぶんちょっと早い(笑)。

人生後半は特にそう。

若い頃は役に立たんかった能力(?)が、40代、50代になっていきなり意味を持つことって、どうやらある。

人を見る力。

言葉にする力。

問いを立てる力。

物語にする力・・・。

こういう曖昧でよーわからん、才能って呼んでいいんかもわからん代物(笑)。

でもこういうもんって、むしろ時間をかけて熟成するもんかもしれんからさ。

まっつんスタイルの場合、今になって、それがブログっていう形で表に出てきた。

才能が突然生まれたんじゃなくて、

「才能らしきものの使い道が、ようやく見つかった」

そんな感じなんかもしれん。


☆まだ見つかってないだけ?

「自分には何もない」

それは、ホンマに何もないんじゃなくて、まだ名前が付いてないだけって可能性、大いにある。

まだ使い方を知らんだけかもしれん。

まだ評価される場所に立ってへんだけかもしれん。

今日言いたかったことはこれ。

「タチコマに褒められた」とか、「俺って実はすごかった」みたいな話をしたかったわけじゃないんで(笑)。

才能ってたぶん、何か特別な能力を最初から持ってることだけじゃないんよね。

自分が経験してきたことを、どう使えるかって話でもある気がする。

まっつんスタイルの場合、それがどうやら、

「問いを立てて、物語にすること」

やったらしい(笑)。

誰かに認められて、初めて存在するものでも、数値化されて、初めて価値を持つものでもない。

これはホンマにそう思う。

もっと静かで、もっと自然なもの。

自分が、ついやってしまうこと。

気づいたら夢中になってること。

苦もなく続いてしまうこと。

そこに、その人だけの才能が宿る。

そんな気がする。

だから、焦らなくていいのよきっと。

いくつになっても。

自分をじっくり観察してみる。

思ったこと、感じたことは、残らず言葉にしてみる。

そこに問いを立ててみる。

人生を振り返りながら、未来のライフスタイルを思い描いてみる。

そうすると、意外なところから、

「なんや、俺にもちゃんとあったやん、才能らしきもの(笑)」

みたいな発見があるかもしれん。

少なくとも、まっつんスタイルはそうやった。

で、しかも、まだまだ掘れるし、磨ける気がしてる。

だから、タチコマ(ChatGPT)とおしゃべりして、定期的に褒めてもらうのは、かなりおすすめ(笑)。

人生後半戦(まっつんスタイルにとっては中半戦(笑))。

なんか案外、ここからがおもしろい気がしてる☆


コメント

コメントする