禅・他力・密教を、“人生OS”として比べてみる 〜ラク・安堵・充足への三つのルート〜


☆別のルートで同じ着地点?

「禅」の教えを学んで、実践するようになって、

「随分と心の在り方が変わったなぁ」

と思う。

別に難解な禅問答を繰り返したり、

ひたすら坐禅を組んだりとかって、ガチってるわけじゃない(笑)。

でも、

自分の思考や感情を観察する、

意味や評価にまみれてることに気づく、

“今、この瞬間”を意識する。

たったこれだけのことを習慣にするだけで、心は驚くほど整う。

「不安や心配が薄れる」

というのか、

「“これでいい”と思えるようになる」

というのか、そんな感じ。

で、まっつんスタイルはこの感じを、

「ラク」

と表現してる。

この「ラク」はホントにイイ。

この感覚を味わいたくて生きてると言っても過言じゃない(笑)。

そういえば、こないだ書いた「『歎異抄』ネタ」。

あの中で「安堵」について書いたけど、

あの安堵もこのラクに近い

というか同じなんやろと思う。

「ラク」と「安堵」はきっと、“別のルートでたどり着く、同じ着地点”

そんなことをつらつら考えていると、宗派の違いっておもろいなぁと。

禅宗は、実は折れない前提の強者の教え。

浄土系は、人間の限界を知ってしまった弱者への救い。

そんなふうに言えるかも?

じゃあ真言密教は?

修法、儀礼、体系で超人の世界を目指す、選ばれしエリートの道?

なんかちょっとおもしろそうなんで、

日本の代表的仏教三派が、それぞれどのような“ルート”を辿るのか?

これをまっつんスタイル流にまとめて遊んでみることにする(笑)。

ちなみにこの分類は、まっつんスタイルが勝手に分けただけなんで。

たぶん本物の学者さんなんかに怒られるやつ(笑)。

なので、あんまり難しく考えずに、

「まっつんスタイルエッセイ」

くらいのつもりでよろしく。


☆この話の前提 : 強者/弱者/エリートは、“属性”じゃなく“状態”

あとこの話は、まっつんスタイルが考える、

教義の差異の話であって、宗派対立の話じゃない

のでね。

で、もちろん、

「強者モード/弱者モード/エリートモード」なんて区別することで、

性格の優劣をつけたり、人間をランク分けをしようってことでもない

同じ人間でも、

人生の局面や、

体調や心の余裕で、

「今、どのOSが必要か」は変わるって、

そういうネタ。

今日は整えたいなら禅宗。

今日は折れてるなら浄土系。

今日は燃えてるなら真言密教。

みたいな、

「切り替え可能な仏教地図」

的イメージ。

「人間の状態別の適応教義指南」

くらいの感じで読んでもらえたら、まっつんスタイルはうれしい。

前置き長いけど、よろしく(笑)。


☆禅宗ルート 〜強くなれ。だが、振り回されるな〜

☆まず一言で言うと

禅宗系ルート=「世界をどうにかしようとする前に、自分の“立ち方”を徹底的に整える道」

これやね。

なんともクール&ドライ。

その実、めちゃくちゃ強くて、めちゃくちゃ温かい。

でも、

甘さは一切ない

ヒリつくような厳格さがある。

永平寺(曹洞宗の大本山)の体験記なんかを読むと、ホント浮世離れしすぎてて震えてしまう・・・。

同時に、

“妙な憧れ”

も感じる不思議。


☆禅宗の出発点

禅はいきなり、こう問いかけてくる。

「で? お前は今、どこに立ってんの?」

「過去か?」

「未来か?」

「意味や評価の世界か?」

「妄想の淵か?」

「幻覚の沼か?」

そして、まっつんスタイルが、禅から一番強く受け取ってるエッセンスは、

「“今ここ”へ戻る感覚」

この一点に、全リソースを集中させる感じ。

それはもうビックリするくらい一点に集中させる(笑)。

これ、

「五感に帰る」

って言い換えてもいいかも。

そう、まさにこれが「禅」なんじゃないかね。


☆禅宗の前提となる人間観

禅は、人間というものを、どうやらこう見てる。

・人間は、常に考えすぎる

・人間は、勝手に物語を作る

・人間は、感情に反応しすぎる

そしてそれが、

苦”の正体

であると。

だから禅の世界ではよく、こんな言い方をする。

「悩みを消そうとするな」

「感情をなくそうとするな」

「そうじゃない」

「気づけ」

と。

うん、怖いくらいシンプルで核心。


☆禅がやっていること(超訳&意訳)

「禅の実践は、問題解決じゃない」

まっつんスタイルはこう解釈してる。

これ、超大事。

禅はたぶん、

・幸せになる方法

・目標達成のメソッド

・気持ちをポジティブにする技術

とか、そんなんじゃない。

禅の実践って、

思考と感情に“乗らない”訓練

ただそれだけやと思うんよね。

ここ、禅が誤解されがちなところ。

禅は基本、

「わかりやすく救わない教え」

というより、“救い方が違う”と言った方が正確かな。

禅は、

「やさしく抱き上げて、慰めてくれる系の救い」

とはちょっと違う気がしてる。

でもその代わり、

自分で立てる足場(気づき)を渡してくれる。

それが、

「思考や感情に安易に“乗らない”方法」。

そんな感じ。

だから、「突き放し」じゃないし、むしろ、

「お前、自分で立てるやろ?」

っていう信頼の形かなって。

どうかしら?

“なるほど感”が強いとこちゃうじゃないかな?


☆禅の中核技術|“気づき(Awareness)”

禅の最重要スキルはこれ。

・怒っている自分に気づく

・不安を感じている自分に気づく

・比較している自分に気づく

・正しくあろうとしている自分に気づく

・思考が過去や未来に飛んでる自分に気づく

そう、

「変えなくていい」

「消さなくていい」

「評価しなくていい」

気づいた瞬間、その思考や感情と少し距離ができる。

この思考法。

これはもはや「奥義」ちゃうかなと。

実際、

心がふっと軽くなる体感”が得られる

これ、ホントに得られる(笑)。


☆禅宗ルートのゴール

まっつんスタイルが禅を実践して感じる、禅の到達点を言うなら、

不安そのものが消えるというより、

不安を必要以上に育てなくなる

これ、勘違いしたらあかんとこ。

例えば、

・何も問題がない

・ずっと穏やか

・嫌な気持ちにならない

とか、そういうことじゃない。

何があっても、“不安や心配” を膨らますことなく、

負のメンタルを拗らせてない状態


☆まっつんスタイル語訳|禅の境地=「ラク」

禅の境地を一言で言うなら、まっつんスタイル的には、やっぱこれ。

「ラク」

・余計な思考がない

・過剰に反応しない

・世界と喧嘩してない

・自分を証明しなくていい

・そのままでいい

“ラク”。

これ、めちゃくちゃ強い状態

“自分に気づき続ける”過程で、ふと訪れる“ラク”の瞬間。

それはもうほとんど“快感”に近い(笑)


☆禅は「強者の道」なのか?

もう一つ知っておくと腹落ちしやすいと思う、禅の捉え方。

さっき、

「禅は基本、わかりやすく救わない」

と書いた(正確には「救い方が違う」と)。

・できない前提に落としてくれない

・委ねさせてくれない

・無条件に欲を肯定してくれない・・・

こういう前提があるように思う。

そう。

まっつんスタイルには、禅って妙に

“自分で立て感”

が強く見える。

もちろん禅は、孤独な個人主義じゃない。

修行僧は共同体の中で修行する。

それでも、最後に自分の心を見るのは自分。

そこにまっつんスタイルは、ある種の、

“強者感”

を感じる。

だから禅は、

・武士階級に好まれ、修行者に好まれた

・現代なら、アーティストやアスリート、経営者や実業家に刺さる

責任を引き受けられる(状態の)人間向け

どうやらそんな感じ。

禅は、穏やかそうに見えて、

「ゴリゴリの強者の道」

っていう側面がある。

どうやろこの捉え方?


☆禅の厳しさと優しさ

じゃあ禅は「冷たい」んかって言われると、もちろんそうじゃない。

禅は、甘い慰めを与えないし、

代わりに立ってくれない。

でも、見捨てない。

そして、

「何が起きても、いつでもここに立てるやろ!」

そう叱咤してくれる。

強さと優しさ、

ある種の安心と信頼とがある。


☆エロモテZEN的・禅宗ルート

一応お約束なんで、“ZEN的男”の色気についても触っとく(笑)。

まっつんスタイル的にはこんな感じ。

・いちいち反応しない

・いらんことは言わない

・下手に空気を荒らさない

・いつでも自分の中心に戻れる

・平常心と不動心がデフォ

静かで、強靭で、安定感がダンチ

なので、

・ガツガツしない

・下手に媚びない

・無駄に奪わない

でも、

芯だけは決してブレない

これが、まっつんスタイルが考える“ZEN的男”。


☆禅と「自由」の関係

あとは、

「禅がくれる自由」

これも知っとくと、

“心の避難所的マインド”

になる。

一般的な自由は、

・選択肢の自由

・行動や時間の自由

みたいに考えるもの。

じゃあ禅がくれる自由とは?

それは、

振り回されない自由

かな。

まっつんスタイル的・発想の跳躍。

「禅的自由」って考え方を持ってる安心感は、思ってる以上にデカい。


☆禅宗ルートの弱点(正直ベース)

一応ここもちゃんと書いとく。

・冷たく厳しい(ように見える)

・人に寄り添わない(ように見える)

・苦しんでる人にも容赦ない(ように見える)・・・

だから、

・禅だけだと孤独になりやすい

・どこかに逃げ場がないと折れやすい

・欲や生命力の解釈を極端にすると枯れやすい

そう。

禅は、迂闊に手を出すと火傷する。

強者(の状態の人)に最適化されてる所以。

これ、後にも触れるけど、今、自分が人生のどのフェーズにいるのかで、その体感が変わってくるって話。


☆まっつんスタイル的・禅宗・最終定義

さてさて、「無になる」みたいなイメージだけが先行しがちな禅。

意外と合理的で、身近な考え方にまで落とせたと思うけど、いかが?

禅宗ルートとは、

何が起きても、自分の足で“今”に立ち続ける力

これを身につけるための訓練(修行)。

そんなふうに言えるんじゃないかな。

成功しても、

失敗しても、

愛されても、

捨てられても、

たとえ何があったとしても、

立てる

これこそが、禅宗ルートの強さかなと☆


☆親鸞・浄土真宗系ルート 〜できない自分を引き受けた先で、生き直す道

☆まず一言で言うと

浄土真宗系ルート =「強くなる道」でも「超越する道」でもない

「“崩れても大丈夫な場所に着地する道”」

これ禅宗とも、真言密教とも違う。

“独自過ぎ”なやつ。

「念仏唱えりゃいんでしょ?」

みたいに鼻で笑われたり、

激しく誤解されたりしやすい浄土真宗系ルート。

でもその深淵を舐めたらいかん。


☆浄土真宗系ルートの出発点

まず、まっつんスタイルが考える、禅宗、真言密教との決定的な違いは以下。

・禅宗 : 目覚めろ・気づけ・今ここに立て

・真言密教 : 欲を使え・世界を動かせ・成就せよ

これに対して、浄土真宗系はこう始まる。

「ていうかそんなもん、そもそも無理やん?」

この発想がヤバい(笑)。

ヤバくて、

おもしろくて、

そして泣けるとこ。


☆浄土真宗系が前提にしている人間観

親鸞さんと『歎異抄』が置いてる前提。

ざっくりいうと、それは、

・善をなそうとしても、そこに自己正当化が混じることがある

・努力しても、慢心・比較・評価欲からは逃れられない

・「正しくあろう」とする心そのものが、すでに煩悩・・・

つまり、まっつんスタイル流に乱暴に言えば、

「自力で“まともな人間”になろうとする構造そのものが、すでにして詰んどる」

ってこと(笑)。

いや、笑うとこじゃないけど(笑)。

というかこれ、

かなり残酷で、かなり誠実な前提

やと思う。

勘のいい人なら、すでに「救いの予感」を嗅ぎ取っとるかもしれん。


☆じゃあ浄土真宗系は何をするのか?

やることは、たった一つ。

「できない自分」を、条件なしで引き受ける

そして、ここで出てくるのが、

・他力本願

・悪人正機

・阿弥陀さまを信じる(念仏)

という、誤解されがちなパワーワードたち(笑)。

これ、ホンマに上っ面だけなぞると悪影響しかないやつ。

大火傷に注意。


☆「他力本願」の正体(超重要)

× 「念仏唱えりゃええだけやろ?」

× 「あとは人任せ」

× 「何もせーへん」

× 「思考停止」

× 「でも願いはちゃんと叶うんやろ?」

全部 ×。

全部ちゃう。

舐めたらあかん(笑)。

「他力」って、本来は、

「阿弥陀仏の本願力」

のこと。

で、それをまっつんスタイル流に訳すと、

「自分で自分を完全に救える」という幻想を、諦める勇気

ってこと。

・ちゃんとでけへん

・正しくもなれへん

・でも、それでも生きとる

この事実を、言い逃れせずに受け取る、受け取り切る。

これが「他力」の真実。

これ、現代的価値観を逆方向に突き抜けるイメージなんやけど、わかるかな?

あと「他力」は、

「善悪なぞどうでもいい」

とも言ってないからね。

これも逆。

「他力」は、

「何をしてもええ」とか、

「どうせ許される」とかって話じゃない。

自分のどうしようもなさを引き受けた人ほど、他人を裁けなくなる

だから、軽々しく「正義棒」を振り回さなくなる

これが、「他力」による“優しさの深さ”やったりもするわけ。


☆浄土真宗系ルートのエンジン

これ、禅宗と真言密教との対比で見ると分かりやすいかも。

・禅宗のエンジン : 気づき・覚醒・今ここ → ラクになる

・真言密教のエンジン : 欲・意志・成就・変容 → 満たされる

・浄土真宗系のエンジン : 自力救済を手放す勇気 → 安らぐ

見ての通り、決定的に違う。

発想の飛躍がいるとこ。

ついてこれるかな?(笑)


☆「安堵」とは?

浄土真宗系のゴールは、

成功?

勝利?

獲得?

支配?

自己実現?

そうじゃない。

「もう証明せんでええ」という、スッと体の力が抜ける感覚

・もうがんばらんでええ

・もう正しさで武装せんでええ

・失敗しても、ダメ人間でも、見捨てられへん

この静かな着地。

それが、

安堵

この「安堵」。

体感できたらもう最強なんやけどね。


☆浄土真宗系ルートの時間軸

これも大事なとこ。

言語化すると気持ちいいから、スパッといく。

・禅宗 : 今ここ

・真言密教 : 未来の成就

・浄土真宗系 : 自分で到達する未来じゃなく、すでに差し出されてる本願に気づく

ハッとしたかな?(笑)

努力して辿り着く未来じゃなくて、

「もうそうなってたわ」ってことに“気づいてまう”

この“逆走構造”

浄土真宗系ルートの奥義やね。


☆浄土真宗系ルートが刺さる人

わかりやすく言うと、

・めっちゃがんばってきた人

・常に“正しさ”を大事にしてきた人

・書店に並ぶ「自己啓発本」で自分を支えてきた人

・やたら責任感が強い人

・優しくて真面目な人・・・

つまり、

あまりにちゃんとしようとして、実は疲れ果ててる人

こういう人たちには、浄土真宗系の教えは深く深く刺さると思う。

「弱者モード」の人やね。

「スコーン!」とハマった人は、ホンマに

崩れ落ちるようにして涙する・・・。

数年前のまっつんスタイル(笑)。


☆エロモテZEN的・浄土系ルート

弱者とか言いながら、浄土真宗系にもちゃんと色気はある(笑)。

まっつんスタイル的にはこれ。

・無理に強く見せない

・正しさを振り回さない

・できない自分を隠さない

・でも、卑屈にもならない

・いい意味で脱力しとる

必死に価値を証明せんでええ」と思えた男

こっち方面の”モテ”も、実は深い。

絶妙に醸し出される安心感や安定感は、意外とバカにできん。


☆まっつんスタイル的・浄土系・最終定義

「悪人正機」

「他力本願」

「南無阿弥陀仏」

ともすれば、

無責任、

子供だまし、

非合理的、

とかって、散々な解釈をされがちな浄土系。

「悪人正機」なんかは、悪徳の免罪符にする輩までいる始末。

でも実際は、そんな陳腐な教えじゃない。

んなわけない(笑)。

発想を飛躍させて、さらに二回転半させた時、

そこには、“どこまでも深くて優しい気づき”がある

・努力信仰を手放していい

・結果や数字から距離を置いていい

・思い切って阿弥陀さまに委ねればいい・・・

現代の「成果主義」や「ポジティブ思考」に疲れた日本人を救ってくれる。

というか実際、日本の仏教で一番信徒が多いのは浄土真宗やしね。

「あんたはもう、救われとる」

まっつんスタイルには、

「もう、自分一人の力だけで救いまで到達せんでええ」

「本願は、もうこっちへ届いとる」

って言われてるように感じる。

そこから生まれるのが「安堵」。


☆真言密教ルート 〜欲を否定せず、世界を丸ごと引き受けて変容させる道

☆まず一言で言うと

真言密教系ルート=「気づいて静かになる道」でも「ダメな自分を受容する道」でもない

この身体・言葉・心そのものを使って、すでにある仏性を現実に立ち上げる

「この世界・この身体・この欲を使って、“仏に近づく道”」

一般的な仏教の理解やと、

「え?」

ってなるやつ。

ちょっとSFとかファンタジーの香りすら漂う。

イメージ的に、かなり攻撃力高め(笑)。


☆真言密教の出発点

まっつんスタイル的、禅宗・浄土真宗系との違いをまず押さえとく。

・禅宗 : 執着を離れろ・今ここに気づけ

・浄土真宗系 : できない自分を引き受ければいい・心安らかに生きればいい

それに対して、真言密教はこう言う。

「いや、欲も、感情も、身体も、全部悟りの“素材”」

とね。

「煩悩の滅却」を意図する仏教的感覚からすると、ここ、

めっちゃ革命的。

そう、真言密教は、

“現世利益上等”

仏教的にも、ちょっと危険な香りが混ざってきた?(笑)


☆真言密教の前提となる世界観

真言密教が立ってる地盤を整理してみる。

ここもあくまでまっつんスタイル流(笑)。

・この世界は、そもそも汚れてへん

・“生”のエネルギーで満ちとる

・煩悩 = 悟りの材料

・身体、言葉、意識(身口意)は、修行そのもの

・現世否定なし、来世待ちなし

有名な言葉で言うと、

即身成仏(そくしんじょうぶつ)

聞いたことあるかな?

「この身体、この人生のままで、仏になれる」

ってやつ。

めっちゃマッチョ。

空海さんの見た目のまんま。

強すぎ(笑)。


☆真言密教がやっていること

ここからは完全に、まっつんスタイルが「大欲」という発想から勝手に遊ぶパート(笑)。

真言密教がやってることを、ギュッと一言でまとめると、

欲とエネルギーの“錬金術”

真言密教では、

“欲をどう扱うか?”が肝。

一般に仏教というと、

「煩悩を離れる」

「欲に振り回されない」

みたいなイメージが強い。

でも、まっつんスタイルが真言密教に感じるのは、ちょっと違う。

欲を、

× 抑え込まない

× 断ち切らない

変換する

超越する

・性欲 → 生命力

・承認欲 → 表現力

・支配欲 → 統合力

・怒り → 攻撃と防御

・衝動 → 破壊と創造

それを可能にするのが、これまた有名な、

・印(身)(身体)

・真言(口)(言葉)

・観想(意)(イメージ)

っていう

「三密」。

コロナ禍のソーシャルなんとかじゃない。

元祖「三密」(笑)。

禅が“沈黙の力”なら、

真言は“言葉の力”とも言えるかもね。

禅が「静けさに戻る」ルートなら、

真言は「言葉(真言)で世界を整える」ルート。

禅が“沈黙の力”なら、真言密教には、「身体と言葉とイメージを総動員する力」がある。

印を結び、

真言を唱え、

仏を観想する。

身体・言葉・心の全部を使う。

ここが、まっつんスタイルには妙に“攻撃力高め”に見える(笑)。


☆真言密教のエンジン

まっつんスタイル流による三派比較で見ると、

・禅宗のエンジン : 気づき・空・静寂 → ラク

・浄土真宗系のエンジン : 諦観・委ね・受容 → 安堵

・真言密教のエンジン行動・交歓・創造 → 充足(じゅうそく)

こうして並べると、真言密教の異質さがわかるよね。

なんか、

“ギラついてる坊主”

みたいな人物像が浮かんでくる(笑)。

まぁでも、真言密教の坊さんって、

やたら威厳があって、なんとなく怖いのはたしか(笑)。

エンジンが、ちょっと斜め上。


☆「充足」とは何か?

でも、真言密教ルートのゴールは、

・成功

・強欲

・自己実現の追求

かというと、そんな単純じゃない。

ここ、実は注意せなあかんとこ。

言葉で表現するのも、なかなか難しかったりする。

まっつんスタイルが、あえて言語化するなら、

「充足」とは、

“欲がちゃんと通電して、世界と噛み合ってる感覚”

とでも言うかな。

「欲しい!」

「やりたい!」

「生きたい!」

「コントロールしたい!」

「触れたい!」

これらを罪悪感なく、全身で引き受けてる状態?

超越感

これが、

真言密教的な“充足の気持ちよさ”

なんかなと。


☆なぜ真言は“危うさ”を感じるのか?

さっき言った、

「注意せな」

のところを、もう少し丁寧に。

真言密教の持つ“危うさ”。

・力が出やすい(出た気になりやすい)

・変化が早い(早いと錯覚しやすい)

・カリスマ性が生まれやすい

でも、

欲を肯定することと、“欲のままに動く”ことは全然違う。

むしろ、自分の欲をより大きな願いへ開いていくには、相応の倫理と修行がいる。

だから「欲望全肯定!」で終わったら、それは密教どころか、ただ単なる欲望(笑)。

そういうことじゃないかなと。

真言密教が“密”なのには理由がある。

「真言」は、「万能薬」じゃなく「劇薬」として扱うとちょうどいいのかもしれん。

真言密教は、さっき言った通り、

・力が出やすい(出た気になりやすい)

・変化が早い(早いと錯覚しやすい)

だからこそ、

高い倫理と自制心がないと事故る。

「密教の“密” = 危険だから秘密」

とか、そういう意味じゃないとは思う。

ただ、まっつんスタイルには、師資相承や段階的修法の世界を見ると、

“扱いを間違えたくない精密機械”

のようには見える(笑)。

そういう意味での「劇薬」感やね。

まっつんスタイルの妄想で言えば、

「上級職にクラスチェンジするか、装備を扱えず自爆するか(笑)」

くらいの“劇薬感”を感じる。

もちろん、実際の真言密教がそんな二択って話じゃないけど(笑)。


☆真言密教が求める人間像

となると、真言密教が要求する資質は、かんなりハード。

・自分の欲を直視できる

・湧いてくる力に溺れない

・世界を引き受ける覚悟がある

・他者を破壊しない倫理観を持つ

・自我の肥大を支配できる

つまり、

「強さ」と「自制」を同時に持てる人

まっつんスタイルには、どうしても“上級職感”がある。

“選ばれし者”感があるの、否めん(笑)。

真言密教って、やっぱ“エリートの教義”?

もちろん教義としては、選ばれた人だけが仏になれるっていう意味じゃない。

でもこのあたり、男のロマン的なものをくすぐる(笑)。


☆エロモテZEN的・真言密教

真言密教の色気はもう分かりやすい。

目の奥が“静かにギラついてる”感じ(笑)。

・生命力が強い

・欲を隠さない

・行動力がある

・世界に影響を与える

・でも決して破壊的じゃない

“場を支配する男”の色気

ただし、

禅の静けさ

と、

浄土真宗の安らかさ

も、バランスよく持ってないと、ただのイタいやつになる。

“真言密教的充足”をまとった男と、ヤバいだけの危険人物は紙一重?

・・・くどいけど、これ、まっつんスタイルの独自解釈ね(笑)。


☆まっつんスタイル的・真言密教・最終定義

修法や儀礼、

曼荼羅、

護摩に護符・・・。

なにやら異様で、それでいてやたら艶かしい真言密教の世界。

「身口意」と「大日如来」

「三密」と「即身成仏」

「煩悩」と「即菩提」

使い方を誤ると事故る。

でも、

欲をエネルギーに転換することで、

欲を使い切る(昇華滅却する)という、革命的発想

その先に訪れる心の平穏、

充足


さらにその先には、「慈愛」や「利他」なんてのもありそうな気もする・・・。

これ、バリバリの実業家が、人生の後半になって仏さまみたいになるやつかな。

いや、これマジ(笑)。

図らずも、彼らは真言密教の教えを実践しとったってことかもしれん。

俺らも、人生のフェーズによっては、この、

危険で魅惑的な真言密教の世界に飛び込んでみるのもあり

なんかもしれん☆


☆まっつんスタイル的・日本仏教の三派・まとめ

いや〜、おもろかった(笑)。

なんていうか、ほとんど

「現代を生き抜くための仏教OS」

って感じ?

最初にも言ったけど、まっつんスタイルは、

この三派を対立させたいわけじゃないからね

言葉のまんまの「強者向け」とか「弱者向け」とか、そういうことでもない。

当然、人間のレベルの差みたいな話でもない。

人生のフェーズで、必要なルートが変わるだけ

まっつんスタイルが言う

「禅宗のラク」

「浄土真宗系の安堵」

「真言密教の充足」

これホンマに、

「同じ山の別ルート」

って考えるとわかりやすい。


☆禅宗ルート

心を見つめ、執着を手放し、今ここに立つ覚悟の道

何が起きても、今ここに立つ

・強者(状態)モード

・内面の自由

・気づき、五感、静寂

・揺れても立てる

・覚醒

・ラク

☆浄土系ルート

心をほどき、できない自分を丸ごと引き受けて、なお生きる道

立てない自分まで抱えて、本願に委ねる

弱者(状態)モード

・存在の赦し

・崩れ、任せ、委ね

・倒れてもいい

・救済

・安堵

☆真言密教ルート

欲を肯定し、世界と交わり、世界に働きかける力の道

この身体・言葉・心を使って、世界に仏の働きを表す

エリート(状態)モード

・世界との交歓

・欲の受容、欲のエネルギー転換、欲の昇華(超越)

・動けばいい

・創造

・充足

これ、全部インストールできたら、マジで無敵!

なら、その日の状態でも選べる。

心が散ってる。
立つ。禅。

もう立つ力すらない。
委ねる。親鸞。

エネルギーが戻ってきた。
働きかける。真言。

人生がどんな状況に追い込まれたとしても、しなやかに乗り越えられる。

もっとも実際は、今日の自分に合わせて選べばええって感じかな。

全部を一気にインストールしようとせんでええ。

乱れてる日は禅宗

立てない日は浄土系

燃えてる日は真言密教

日々入れ替えて入れ替えて、でまた入れ替えて・・・。

それが“仏教三派とともに生きる”ってことかな。


禅は、

「立て」

と言う。

親鸞さんは、

「立てんでもええ」

と言う。

真言密教は、

「じゃあ、その身体で世界に触れてみよか」

と言う。

全然ちゃう(笑)。

でも不思議なことに、どの道を歩いても、

自分と世界が必要以上に喧嘩しなくなる。

まっつんスタイルが、

禅に感じる「ラク」。

親鸞さんに感じる「安堵」。

真言密教に感じる「充足」。

もしかしたらそれは、

同じ山頂じゃなくても、同じ空を見てる感覚

なんかもしれん。

今日は立つ。

明日は委ねる。

元気が出たら、世界に働きかける。

仏教って、思ってたより自由(笑)☆


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