「なんで今それ?」という“どうでもいい記憶”の正体 〜禅的内観と、記憶の供養の話〜


☆ 「なんで今それ?」っていう謎の記憶

今日はちょっと、言葉では表現しにくい話(笑)。

たまにある。

ホンマに、なんでもない記憶。

人生を変えたわけでもない。

なんか大事件とか、ドラマチックな出来事ってわけでもない。

でもそれを、なぜか、何度も思い出す。

定期的に、何度も・・・。

これ、わかるかな?

しかも決まって、

「うわ、気持ち悪・・・」

みたいな、微妙な違和感を伴って・・・。

あるいは、

「え? なんで今それ?(笑)」

って首を傾げるような、意味不明の記憶やったり。

最初は、

「単なる脳の気まぐれ?」

くらいに思ってた。

でもこれ、よくよく観察して解析(?)してみると、どうも違う。

あの記憶の再生、どれも微妙に

“心に棘”として刺さってる

気がするんよね。

だから、痛い(笑)。

おそらく、その正体は、

“軽いトラウマ”

羞恥。

罪悪感。

劣等感。

後悔。

気まずさ・・・。

ほんの小さな、でも確かに心に残ってる、“トゲ”。

どうやら脳は、それを定期的に、繰り返し再生しながら、

「どうこれ? もう大丈夫?」

って確認してる・・・、気がする(笑)。

今日はそんなお話。


☆ 強烈な傷より、「小さな違和感」が残り続ける

不思議なことに、俺の場合、人生を揺るがすような大事件よりも、

軽い違和感

の方が、妙に繰り返し浮かんでくることがある。

大きな傷は、

泣いたり、怒ったり、誰かに話したりして、ある程度“処理”されるんかもしれん。

でも小さな違和感は、

「うん、まぁええか・・・」

で放置されやすい。

ほんで、脳の中で、“未完了フォルダ”に入ったままになる。

そんなイメージ?

だから、ふとした瞬間に、脳内OSが通知してくる。

「あの〜、このファイル、まだ閉じてませんけど?」

って(笑)。

あの「謎の記憶の再生現象」って、言うてみたら、

“心のデフラグ”

なんちゃうかな。

なにか特定のトリガーに触れると、脳が、未処理の感情を整理しようと動き出す・・・。

ここまで、まっつんスタイルの仮説。

いかが?


☆ 「気持ち悪い」は、処理中のサイン?

で、たぶん、ここがかなり大事なとこ。

その、

「なんでもないけど、どうやら刺さってるらしい記憶」

が蘇った時って、たいがい、

「うわぁ、またや・・・」

「思い出したくない・・・」

ってなる(笑)。

でも実は、その時点で、少し“癒し”が始まってるって思うのよね。

なぜなら、脳は、

「まだどこかに引っかかってる記憶」

を、ふとした拍子に再生することがある。

で、その時の自分によっては、そこから少しずつ、何かを整理できるんちゃうかなって。

なんか、そんな気がするから。

つまり、未処理の気持ち悪さに対して、なんとか処理の方法を見つけようとしてる。

あるいは、昔は耐えられんかった感情を、今の自分なら見つめられるようになった。

だから、定期的に浮かび上がってくる。 

そんで少しずつ、

「まぁ、あの時の俺はあれが精一杯やったからな」

とか、

「めっちゃ恥ずいけど、まぁある意味で人間らしいとも言えるわな(笑)」

みたいに、新しい意味づけを何度も試してる最中。 

すると記憶は、“痛みの記憶”から、“データとしての記憶”に変わっていく・・・、とか?

いや、もう一回言うけど、ここまではどれも、まっつんスタイルの仮説ね(笑)。

でもどやろ?

なんとなく説得力ない? 


☆ 「どうでもいい記憶」に隠れてる、小さな光

で、ここからまた、ちょっとおもしろい。

よくよく観察すると、この“どうでもいい記憶”って、ネガティヴなものだけじゃないんよね。

中には、

・空気感

・体温

・匂い

・声

・音

みたいな、微細な“心地よさ”が紛れてたりすることもある。 

たとえば、幼少期の地域行事。 

若い頃に聴いてた音楽。 

母親と過ごした日常。 

友人と交わした、意味のない会話・・・。 

そういう記憶も、ふと蘇ることがある。 

これはたぶん、

「たしかに穏やかだったころの自分」

「心から安心安全でいられたころの自分」

の再訪なんやと思うのよね。

脳が、

「あぁ、あの時も、こんな感じで静かやったなぁ」

って、今の自分と“共鳴”してる瞬間。

だから、

ネガティヴな再生 = 未完了の確認

穏やかな再生 = 安らぎの再会

みたいなことなんちゃうかなと。

そんなふうに考えると、なんかちょっと、泣けるよね。

「健気やなぁ、俺」

って(笑)。


☆ 禅的内観とは、「消そうとしない」ことかもしれない

ここで、禅っぽい話もしとく。

ここは『まっつんスタイル』やから(笑)。

昔の自分やったら、さっきから言ってる「些細でイヤな記憶」が浮かんだ瞬間、

「もうええちゅねん!」

「消えてくれ」

「忘れさせてくれ」

ってなってたと思う。

でも今って、少し違うのよね。

それを、「ただ観る」って感じ?

だからこそ、こうしてブログネタにもできる。

で、

「あぁ、また来たんやな」

って、少し笑う(笑)。

逃げず、追わず、意味を急がず・・・。

この姿勢。

浮かんでは消える泡を、ただ見守るように。

すると不思議なことに、それらの記憶って、勝手に霧散していく。

まぁまた隙あらば姿を現すけど(笑)、少なくとも前みたいな、「不愉快なゾワゾワ感」は減ったよね。

「どーでもいい記憶」の輪郭をクリアにして、リフレームする。

小さなネガティヴの来訪に気づき、消え去るのを見守る。

あるいは、一生見守り続ける。

こういうのが、いわゆる「禅的内観」なんちゃうかなと。

最近はそう思うようにしてる。


☆ 目指すは、「刺さったまま微笑める人」

結局、生きてたら、完全に処理しきれん記憶って出てくるもんでね。

たぶん、一生残るもんもある。

しかもネガティブな記憶として。

でも、それでええのよね。

それでも、穏やかに生きられる人って、その“トゲ”を抜いた人じゃない。

刺さったままでも微笑める人

なんやと思うから。

痛みを否定しない。

恥も、後悔も、未熟さも、

「まぁ、そんなことも、ありましたな〜(笑)」

くらいに抱きしめられる。

そして、その痛みを、優しさ、味、ユーモア、ブログ記事に変えて生きていく(笑)。

それがたぶん、成長とか成熟っていうやつ。

もしくは、最近好きな言葉。

「折り合い」なんかなって。


☆ 結び:「記憶の仏事」

うん、今思いついたけど、もしかしたら、

記憶を“供養する”

って考えたらどうかね?

ちょっとおもろい発想かも。

何度も蘇るのは、“成仏できてない”から。 

だから、

「ちゃんと“生きた証”を認めてくれよ」

って、昔の自分が会いに来てる(笑)。

ならもう、追い払おうとしない。

静かに座って、線香を焚いて、弔う。

そうやって、昔のその出来事に想いを馳せればいいんかも。

すると、そのうち記憶は、仏になる。

“痛み”が、人生の“味”になっていく。

ここまで書いた今、そんな気がしてる☆


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